放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

最強の集中術 ルーシー・パラディーノ 著 訳者 森田由美

卒業研究が一段落して、やっと読書を楽しめる気分になりました。

卒業研究に挑戦しよう!と思ってから、実際に取り組んで、ゼミにも参加し、とりあえず大学に提出するまでの間、そのテーマを探すことや、そのテーマにかかわる文献以外の文献などはほとんど、読む気が失せていました。

その間、約2年間。

あっと言う間だった、というのが正直な感想です。

(でも、もちろんまだ終わってはいないので、これからまだ口頭試問にむけての資料づくりがあります。)

その間、とても大切だったことがあります。

それは、締め切りを意識するということ。これは別に卒業研究に限らず、どんなことにもいえることすが、今回特にこの意識が大切だと痛感させられました。

なぜ、今回痛感したのか。

それは、卒業研究という私にとっては前代未聞の大きな取り組みであり、本当に仕上げることができるのか、というしつこいほどの不安に常にさいなまれていたからです。

なぜ、そんなに不安だったのか。もちろん、経験したことがないことにチャレンジすることはこれだけではないのですが、今回は、「統計分析」という作業がありました。

アンケートを行い、それを分析して、結果を出し、考察をする。

この分析の箇所が、かなりのプレッシャーになっていました。因子分析と重回帰分析をおこなうにあたって、重大なミスがあったらどうしよう、とか、数字をみることで自分に分析なんてできるのか、とかとか

先行研究をみれば、これらのことは当たり前としておこなわれているし、できないことはない、とは思いつつ、いつも一歩進めばまた、壁にぶつかり、の繰り返し。

つまり、私はこの取り組みにかなり神経質になっているし、おそらく締め切りぎりぎりでは冷静な分析などできない、ということがわかっていました。

 

つまり、分析はすくなくとも、締め切りの2カ月前には終了し、残りの2カ月は、粗削りでも、なんとか文章にしたものを、ひたすら見直し、余分なものを削る作業だけに集中することに決め、かなり早めのしめきりを自分なりに設定して、やってきました。

 

まず、集中して物事をおこなうために必要な鍵として、自分を知ることは有効なようです。

今回、自分が試行錯誤して格闘したことが、こういうことだったのかとわかった一冊です。

 

最強の集中術

最強の集中術

 

 

 この本は、集中する、あるいは、別の言い方をすると、注意を注ぐことの重要性について述べられています。著者は集中力を専門に研究をしつつ、臨床心理士としてカウンセリングもおこなっています。

 

集中力とは

物事に集中しているときとは、言い換えれば、あることに「注意を向けている」状態です。

この注意力を管理するスキルが、いわゆる、集中力を高めるためるスキルであるとしています。

この集中力のスタイルは人によって異なるので、自分がどのようなタイプなのかを少し考えてみることもいいかもしれません。

でも、どのようなタイプであれ、幾つかのスキルを知ることで集中力を高めることができるとしています。

集中というと、なにか大きなこと、例えば、試験勉強とか、スポーツの試合などのような非日常でのことを思い浮かべがちですが、もちろん、そのような場面でも必要ですが、日常的な場面で、案外私たちは注意を向けておこなうことができにくくなっています。どうでもいいことにふりまわされ、注意は細切れになり、結果として、日々達成感がないような時を送ってしまうことがよくあります。

例えば、自分にとってつまらないことでも、先延ばしせずに、必要なことをきちんと決められた期日までにおこなうことができることも集中力が必要です。

その小さな集中力の積み重ねが、小さな達成感を生み、成功体験となり、より大きな目標を定めたとき、自分への信頼となって、目標達成への成果となることでしょう。

 

では、いまなぜ、このような集中力が求められるのか。

それは現代のライフスタイルに理由があるといえます。

スマートフォンやインターネット、Wi-Fiの普及によって、私たちの生活はたえず、注意が散漫になりがちです。一定の期間、一つのことをなし遂げるというにはあまりに誘惑が多い時代です。ゲームやSNSなど、注意をそらすものはいくらでもあるからです。

 

集中力と刺激

集中力と刺激の間には相関関係があることは、十分確認されている事実だそうです。この集中力を理解し、その管理法を学ぶにはこの両者の関係性が重要になり、刺激の適切なレベルが集中力を発揮させるようです。

心理学では人間の脳の興奮度を「覚醒レベル」という言葉で説明するが、この覚醒レベルは生理学の用語でこれは、体内のアドレナリンの分泌量に比例するようです。またこのアドレナリンの分泌量は本人がどれくらい興奮しているかに左右され、覚醒を活性化または意欲とも呼ぶことあるようです。

覚醒とアドレナリンは、興奮するほど多くのアドレナリンが放出され、この放出によってますます興奮が高まっていく。逆もありで、興奮がおさまるとアドレナリンの放出量が減り、そうするとますます興奮が醒める。

刺激が多くアドレナリンの分泌量が多すぎると、脳はオーバーヒートをおこす。緊張のあまり頭が真っ白になるというのはこういうときに起こるようです。

逆に刺激が少なすぎると、アドレナリンの量が少なくなり、やる気をなくしてしまう。動機付けが得られず、倦怠、停滞、意欲喪失に陥る。

刺激が適度なレベルにあると、脳はリラックスしつつ、覚醒した状態になり、意識がクリアとなり、目の前のことに没頭することができる。

アドレナリンの分泌を最適にするにはどうしたらいいのか、というところですね。

 

逆U字型カーブ

集中力と刺激との関係を示す曲線グラフで、心理学者のロバート・M・ヤーキーズとジョン・D・ドットソンが1908年に考案した、「ヤーキーズ=ドットソンの法則」というものがあります。この法則では、覚醒レベル(刺激レベル)が高まると課題の成績(集中力)も向上するが、覚醒レベルが一定限度を超えると、逆に成績が低下するというものです。横軸が刺激、縦軸が集中力となっていて、刺激が最適なときに集中力がピークとなり、その両側がそれぞれ刺激が弱いところと強すぎるところになっています。

ヤーキーズ・ドットソンの法則 - Wikipedia

 

刺激はアドレナリンの分泌量でもあり、ゾーンにはいれず、自分の集中力がコントロールできないときは、自分のアドレナリン分泌量と目の前の状況の間に不均衡が生じているとしています。

 

集中力を取り戻すために

このような刺激の強さによるアドレナリンの増減についてコントロールする方法はあるのか。

スポーツの世界で取り入れられている方法を取り入れることで、対処する方法が紹介されています。

➀ 一旦立ち止まり、自分がゾーンの外にいることに気付く

② ゾーンに戻るための対処法を実践する

 

著者は心理学の認知的手法を使って、考え方を変えることで行動や感じ方を変化させ、結果として集中力を高められるようなスキルを紹介しています。

ただ、本書では、個人によって様々な条件が異なり、刺激への感受性や、環境などによって対処法は異なることから、まずは自分が陥りやすいタイプを知って、対処を利用することを勧めています。

以下に本書で紹介された集中ゾーンに入るための鍵を参照します。

 

感情スキル、思考スキル、行動スキル

8つの鍵はそれぞれのスキルを高めるためのものです。

感情スキルは、第一の鍵から第五の鍵までで高めることができる

思考スキルは、第六の鍵から第七の鍵までで高めることができる

そして

行動スキルは、第八の鍵で高めることができる

としています。

 

感情スキル

 鍵が一番多いスキル。思考スキルとも重複する部分が多いのは、感情を生み出す脳内回路と思考回路を生み出す脳内回路は複雑に結びついていることから、だそうです。

第一の鍵  まずは自分を知る

第二の鍵  気分転換のすご技

第三の鍵 先延ばし撃退法

第四の鍵 不安を打ち負かす

第五の鍵 緊張をコントロール

 

感情スキルとは

自分の気持ちを感じとり、それを極力自分のプラスになるように調整すること、としています。

感情を調整することはむずかしい、というか、沸き上がってくるものだから、気がついたら、不安になっていたり、怒っていたり、あるいは楽しくなっていたり。

そんなの調整できるの?と思ってしまいますが、考え方を変えることによって、思考の変化にともなって感情も変化する、としています。

不安な気持ちがある状態で、たとえば、スケジュール管理ソフトを使おうとしても、使えない、使うどころではない、となってしまう。

第一の鍵では自分を知ることで感情スキルをコントロールしようとします。

ここでは、「心の番人」が紹介されます。心理学では、マインドフルネス(観察する自己)と呼ばれるものです。

すこし距離をおいて、自分の様子を観察してみる。なにをすべきなのか、なにをすべきでないのかを教えてくれる存在です。

 

やるべきことがあるのに、それをやらない。それはそれはなぜか。

たとえば、私などもよく陥るんですが、やらなければいけないことに向かおうとすると、別のことをやり始めてしまう。よく、机の周りを片づけ始めてしまうとか、あります。それは、やるべきことに対して強い不安がある場合など、その不安が邪魔をすることが多々あるわけで、そこから逃げない気持ちが必要になるようです。

あれもこれもという忙しさというのは、本当にすべきことから逃げているときに、その不安さから逃げるためのものであるかもしれません。

本当に対処すべきことに立ち向かったとき、不安は消え、集中力を発揮して取り組むことができるのでしょうね。

 

第二の鍵は気分転換のすご技です。

それは4点呼吸法とパワーブレイク、そしてながら作業を使いこなすというもの。

それぞれ、テクニック的なものですが、要は、なにかに集中しかかって、すぐ別のことをしてしまう、という注意力が散漫になるとき、ある一定の休憩をいれて、またやるべきことに戻ること。いまおこなっている作業がどのような作業なのかによって、休憩の方法は変えることが効果的なようです。

また、ながら作業というのも、取り入れ方によっては効果的なようですが、人間の脳とは同時に複数の作業を同じレベルでおこなうことはできず、両立させていると思っていても実際の作業効率は下がります。なので、たとえば、作業しつつも、メールチェックをするというのは、むしろ、メールチェックをして気分転換している(休憩)ということになるようです。

 

私はラジオが大好きなので、ついつい、ながら作業にラジオを聞いてしまいますが、ラジオが面白ければ、作業には身が入っていません。そして、作業に集中してしまっていると、ラジオの中身はまったく、頭に入ってきません。

ながら作業というよりも、むしろ気分転換や、なにかをおこなうときのルーティンのようにして、軽めの音楽を聞いたり、深呼吸をしたりと、不安な気持ちを和らげるツールとして利用することがいいようですね。

 

第三の鍵は、先延ばし撃退法です。

先延ばしは、恐怖心に根ざしているということで、この第三の鍵と、第四の鍵(不安を打ち負かす)、第五の鍵(緊張をコントロール)はどれも、自分がなんとなく感じている恐怖心に気付くための方法でもあります。

恐怖心を感じると、ヒトは脳を含めて体内にアドレナリンの濃度が急激に上昇し、脳の原始的な防衛本能を司る部分からノルアドレナリン(アドレナリンの一種で恐怖に反応する物質)が分泌されるそうです。その場合、攻撃するか、逃げるかという体勢となると、怒りのモードと同時に不安や心配、自責などいらだちに起因する感情がうながされるようです。

先延ばしをする人の不安とはどんなものか。

失敗への不安

成功への不安

言いなりになることへの不安

があるようです。

これらに対処するために、ここでは自信を培う、やる気に火をつける、過去を語り直す、などが挙げられています。

自分を信じ、目標を明確にし、達成する条件をつくり、前に進むことを重視することなど。これは、まさに私が研究に取り組んでいたときの対処法でした。とにかく途中経過のなかで、完璧は目指さない、前にとにかく進むことを重視しました。といっても、最終的なチェックでは、かなり、細かい箇所を見直しました。

カレンダーに自分なりの締め切りを書くと、自然とその目標に沿ってできることがわかって、かなり気持ちは楽になったものです。つまり、自分は案外、できるんだという自信が沸いてきました。

 

もし、ひんぱんに先延ばしする癖がある場合は、過去をふり返ってみることも効果的なようです。気がつかないうちに、過去に経験した感情から、そこに縛られ、また同じことを繰り返してしまうという可能性もあるようです。過去を新たな目で見直すことで、たとえ過去の出来事であっても、いま、自分がその過去の状態をみつめ、いまだったらどのように対処できるか、など想像力を働かせることで、修正し、先延ばしの癖を脱却できることも可能なようです。

 

第四の鍵は、不安を打ち負かす、です。

不安というと、なんとなく漠然としていて、それがいっそう、気持ちを不安定にさせます。

この不安と向き合うことで、対処していこうというのが、この鍵です。

その対処として、

現実性をチェック

対処プランを考える

思考の置き換え

が提案されています。

不安の種類を検討してみます。その不安は正当な不安なのか、根拠のない不安なのか。

ここで、第一の鍵で登場した、心の番人を呼び出し、自分の不安を客観的に観察することですこし冷静になってみること。

そして対処方法を書き出してみること。実行できる、具体的で前向きなプランを立ててみること。それだけでも気分が落ちつきそうです。

また、意図的に意識を別のことやものにそらしてみる。思考の転換というものらしいけど、オリンピック選手などがこのようなメンタルトレーニングをおこなうようです。

頭の中だけで、自分のストレスをコントロールできるなんて、すごいですね。でも、思考を変えることができると、かなり心が自由になる気がします。そんなリラックスした状態で、初めて集中することができるんでしょうね。

不安を打ち負かすというより、不安をくるっと裏返すような感覚です。

 

第五の鍵は、緊張をコントロール、です。

ここでも、心の番人が活躍します。緊張は怒りもともなうものでもあります。なにかに不安を抱きつつ、その不安の原因がはっきりしない(はっきりさせたくないという無意識の行動もあるかもしれません)とき、ささいなことで、怒りを爆発させたり、それを繰り返してしまうようになります。心の番人を呼び出し、自分が本当に不安に感じていることはなにかを、冷静に、探し出してみること。

それはひょっとしたら、ささいなことかもしれないし、それが不安となって、関係ないところで、怒りとなってしまうこともあるようです。

 

 どこかで無理をしていないか、自分をよくみてもらいたい、認めてもらいたいなど、自分の心の範囲を超えた期待や、行動に押しつぶされそうになっていないか。

それらをすこし、整理し、心の番人に判断してもらうのもいいかもしれません。

緊張と怒りは、つながっているものなんですね。

 

つぎは、集中ゾーンに留まるための思考スキルです。つぎの6と7の鍵は前頭葉を鍛え、注意を乱す様々な要因に対処できるものとしています。

 

思考スキル

第六の鍵 やる気を奮い起こす頭の使い方

ここでは、不安ではなく、欲望を原動力にすることをメインとします。感情スキルは主に、物事への取りかかり、集中状態では、頭の中はその維持に必要な化学物質が分泌されています。セロトニンドーパミン、そしてノルアドレナリン

セロトニン分泌はリラックスの作用を与え、ドーパミンは欲望を原動力とし、目標や報酬に応じて分泌され、ノルアドレナリンの原動力は不安であり、脅威を察知すると分泌され、攻撃、逃避反応を引き起こすものですが、これもうまく使うことで活力を引き出すカンフル剤となるようです。

欲望とは、自分が心からやりたいことをやり遂げたいと思うこと。

ただ、そのモチベーションを保ち続けることはむずかしい。

そこで、その目標が自分にとって実現可能なものか、また、その目標の志についてのビジョンも必要になる。

また、他の人や、数値にふりまわされず、自分のペースを守ること。そして、自分が成長することに焦点をあてること。

スポーツ心理学では、このような目標設定までの道のりを階段づくりにたとえるそうです。一つ一つの段の幅と順序に気をつけることで、この階段を登ることで自然と頂上にたどりつける。

また、柔軟性をもって、物事に対処することも必要です。どんなことも完璧にはできないことが多いはずです。

そして、究極は、死の間際にどう思うか。最終地点にたどりついたとき、様々な雑念はどうでもいいと思えるようになる。つまり、なにが大切なのかを見極めるとき、いまをみつめることができるようになるからでしょう。

 

第七の鍵、段取りを整える

個人的には、ここが一番私にとって集中に入りやすい鍵かもしれません。

段取りを整えることで、決まった手順に沿っておこなう安心感も得られます。

締め切りから逆算していくと、ここまでにはこれをやっておこう、などと細かく目標を立てることができます。

目標を意識することでドーパミンの放出を、段取りの安心感からセロトニンが分泌され、注意力を高める脳内化学物質のバランスが整うようです。

段取りづくりとは、不安を抑え、明確な枠組みをつくることです。

そしてそのためのスキルとして、

 

セルフトーク

姿勢の見直し

メンタルリハーサル

 

私がやはりいいなと思ったのは、セルフトークの中の、心の錨をつくることです。

心の錨とは、船を固定する錨のように集中ゾーンに引き止めてくれる簡潔な言葉、言い回し、イメージです。いろいろありますが、自分を信じること、私は今日これを仕上げる、私ならできる、などを言葉にしてみるということです。ひとりでいるときは声にだしてみて、周りに人がいるときは、心の中でつぶやいてみる。

できないと思うことをより肯定的な言葉に置き換えてみる。(思考の置き換え)

自己肯定とは、自分に注意を向けることです。自分の能力やスキル、長所に注意を向けることで、それらの資質を肯定していることになり、資質は注目されることで伸びるようです。注意を向けると、それなりの見返りがえられることがわかり、いったんその見返りが得られると、人間はその行動を繰り返すようです。

誰かにほめてもらう、とは、私はこの人に注意を向けてもらえた、と思うことです。ほめてもらうとまでいかなくても、声をかけてもらったなどでも、とてもうれしくなることがあります。それが、自分自身であっても、見返りがあるとは、驚きです。

また、姿勢の見直し、の中に紹介されている、快適さに安住しないということもまさに、その通りだと思いました。

 

新しいことを学んだり、新しい環境に置かれると、緊張します。そして快適な環境にいる自分に戻りたくなります。

これを、環境ゾーンから飛び出すといいます。新しい人間関係、場所、本の内容もまださっぱりわからない。自分の経験したことのないところにあえて身を置くことは不快ではあります。しかし、この刺激が実は集中ゾーンに必要なようです。

新鮮な体験とアドレナリンの分泌は、緊張感と生きているという実感を生みます。

私が卒業研究をやろう、と決心してから、ずーっとじつはこの緊張感がありました。新しい仲間や、ゼミでの話し合い、東京までの往復などなど。

けれど、これが良かったですね。たえず緊張していたからこそ、集中力は増していきました。

 

第八の鍵  生活習慣から意識する

8つめの鍵は行動スキルになります。

生活習慣から意識するために

 

集中できる人の生活習慣

頼りになる友人

身のまわりの整理整頓

 

生活習慣は、睡眠、栄養、刺激物などへの対処を紹介しています。どれも、人それぞれの生活環境があるので、一般に良いといわれる環境を目指す程度でいいかなと思われます。

ここではリラックスするためにも様々な手法が紹介されていますが、私は、今年に始めたヨガやフィットネスがとてもいい気分転換となっています。

ここには単にからだを動かすだけでもストレスが発散されますが、呼吸を深くおこなうことと、ゆったりした気持ちで、マット一枚の上で、自宅でいつでもおこなうことが心の余裕をもたらしてくれました。

ものを考えるというと、脳の働きをメインに考えますが、私としては、からだが脳を支配しているのではないかと思うほど、汗をかくほどにヨガやフィットネスをおこなうと、なんともいえない心の解放感が得られます。そしていっそう、つぎの作業への意欲が沸いてきます。

また、頼りになる友人という鍵では、友人という括りにとらわれず、私は憧れる人、尊敬できる人があると、また、自分を奮い立たせる鍵となるような気がします。

指導してくださる先生、あるいはもう亡くなってしまっていても、その著作や、生きざまに共感できる人など、心の支えとなる人をもつこともモチベーションを保ち、ひいては自分を高めていける目標となります。

そして最後は、身の回りの整理整頓です。

これは、私がいつもなにかを作業を始める際に、おこなうことです。とにかく、目の前のちらかりを一旦片づけること。もちろん、やりだすときりがなくなるので、ある程度ここの部分を片づけようと、簡単な目安を立てておこないます。

 

また、簡単な作業的なことから取りかかり、徐々に面倒なところにもっていく。細々したささいなことをやっているうちに、すこしづつ頭が作業モードに入っていきます。

そのときにも、あらかじめここは今日絶対やっておこう、というところははずさないようにします。

このような作業的なことは、実際に深く考えなければいけない時間に入りやすくしてくれます。パソコンへの入力は、かな入力をおこなっているため、キーボードをリズミカルに叩くうちに、頭がクリアになってくるという利点があります。

 

私が集中ゾーンに入るために、どのようなことが効果的なのかを、経験的なものと、この本に書かれていた認知心理学手法と、生理心理学的なことから組み合わせて、一つのストーリーをつくることが面白そうですね。

 

ヨガや呼吸法を取り入れて、まずはリラックスする

机の周りや、筆記用具、ノート、本などが散らかったいたらすこしづつ整理する。

自分のやりたいこと、今日取り組みたいことを書き出してみる

など。いま思いついただけでも、いくつかありそうです。アドレナリンやドーパミンなどちょっとむずかい言葉を使ってストーリーをつくってみても楽しそうです。

 

アテンション・エコノミー

ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ハーバード・サイモンが1971年に「情報の豊さは注意の貧困を生みだす」という主張を唱えました。

大量の情報の意味を理解するための注意力が必要なのに、それが不足している。

本書では注意力を例えば貨幣のようなものだと考えみることが提案されている。

注意力には収益、これは上述のように、自分の長所に注意を向けるだけでも、見返りがあるとされるわけで、実際にその長所は伸びていくということならば、それを自分が選択した情報や人、ものに注意をしっかりと向けることで、収益が得られるということも理解できます。

集中ゾーンに留まるということは、自分がなし遂げたいことに注意を向け続けるということなんですね。

ただ、長い人生において注意が乱されることは多々あります。でもそれは、思いもよらない新鮮な気持ちをもたらしてくれるものでもあります。

自分の中で大切なこと、注意を向けるべきことと、そうでないことを見極めることが、まずは、集中力を高めるための第一歩かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学院という選択

今日、大学院に関して、とても参考になる本を紹介していただきました。(何冊かあったのですが、以下の本以外は貸し出し中でかりることができませんでした)

 

養老院より大学院 (講談社文庫)

養老院より大学院 (講談社文庫)

 

 すぐに図書館に寄って、借りてきました。

図書館で借りたのハードカバーでしたが、文庫もでてるんですね。いまここで知りました。

そして、さっき読み終えました。とっても読みやすく、時々、読みながら、爆笑。

卒業研究の仕上げ部分をやろうとして、ついつい、読みふけってしまいました。

時々、大学院生が徹夜がつづいたり、研究室で寝泊まりするということを聞いたことがあったのですが、本をよんで、納得しました。

私はまだ卒業ではないので、卒業研究を終えてもまだ在学ということになりますが、その次を考えると、大学院という選択肢もありかな、とはおもっています。

ただ、自分がなにを研究していきたいのか、が明確でないと、ただ大学院という雰囲気というか、なんとなく勉強を続けたいなー、だけでは、受験の段階でも、いわんや、運良く入学できても、挫折しますね。多分。

内館さんの学びたいと思った原点は、「大相撲における土俵の女人禁制」について、ひいては、「大相撲」をもっと深く知ること、理論的に学ぶことでした。そのパッションは、途中失いかけても、原動力となっています。

私にそれだけの研究したいことがあるのか。

いや、一杯あるんですけど。じつは。

ありすぎて、迷うくらい。

高校生のころから、なんか哲学的なことや、宗教的なことを考えることが好きで、本も読んでいました。大学も哲学科みたいなところにも行きたかったのですが、結局目先に走った選択をして、就職と結婚。

父が私が20歳のときに急死したことも影響して、とりあえず早く結婚して、子どもを産んで、子育てをさっさと終えてから、やりたいことをやろうとおもっていました。

もちろん、結婚、子育て、義父の介護と死去、実母の介護真っ最中、と、いろいろありますが、それとこれとは、まったく別の次元で私の学びがあります。なので、先行研究など、文献をよんでいると、それこそ、内館さんの著書にもありますが、

社会人が大学や大学院に入った後、もしも若返ったとするならば、それは若い学生に囲まれているからではない。社会人の日常生活では考えられないようなことを習うからである。社会人がついも身を置いている日常や現実の中では、とうに忘れていたことを教わるからである。

P109  第五章 「非日常」に若返る社会人

の様な心境、

つまり非日常に浸ることができるのです。これは、たとえば映画やドラマ(SFなど、それこそ非日常を扱ったものなど)お芝居やその他、人によって、その非日常感を得るものは違いますが、私は、非日常を学びの中で体験することに大きな喜びを感じます。なので、大きな図書館などで、たくさんの蔵書に囲まれていると、昔からの多くの知恵と英知が詰まっているその空間にとてもやすらぎと、喜びを感じるのです。

 

しかし、それはまさに人それぞれ。

一人一人が、なにが自分にとって非日常であり、そこに浸ることで、生きる活力を得ていくのかを見つけることが、この複雑な世の中を生き抜くことに必要だと思います。

 

また、著書の中にも激しく同意する部分。

 

だいたい、どう考えてみたところで、社会人が大学や大学院に行くのは「趣味の領域」である。

社会人になって再び学問をするということは、これはもう、よほどの例外を除いて「趣味」である。中高年の社会人学生がこれからの日本を、そして世界を背負うわけではないし、もとより誰もそんなことは期待していない。 P153 「第六章 得たもの失ったもの」

 まさに、卒業研究をやりながら、その頭の中の飽和状態を感じつつ、もうだめ、とおもっている自分を、外からみている自分がいて、なんて幸せな時間なんだろーと。つまり、「痛、気持ちいい」感じです。これは完全に、趣味の世界だろうなと。

生活が困窮していたら、こんなことしてられない。

子どもが小さいときには、勉強なんてできっこないのは当たり前です。

背負うものがない、責任がないとはなんと楽なことでしょう。

また、誰かと、競うこともしなくてもいいこと。もちろん、ライバルなどがいた方がいいかもしれません。でも、年齢を経ると、あまり競争心も沸かなくなります。つまり人のことはどーでもよくなってしまうんです。

若いときのように、人とたえず比較してしまうとか、ピリピリした感じもなくなってきました。疲れちゃうんですね。

そんなことにエネルギーを使うより、すこしでも、本読んだり、じっくり学問の中に浸って考えることに集中したい、と思えるような心境です。

 

 

たしかに、大学院は大変でしょう、大変だ、むずかしい、などなど、ありますが、もし、本当に続けることが困難なら、すっぱりやめることも選択できるわけです。

趣味ですからね。

というと、なんか無責任な感じがしますが、それくらい、気持ちをちょっと広げて受け止めることも大事かなと。悩んでしまっても、ふっと我に返って、あ、これは自分の趣味だし、と。

けれど、やはり始めるには無理は禁物です。まさに現在お金を貯めなくてはいけない、家族のことでやることがたくさん(子どもが小さい、親の病気や介護、夫(妻)の病気や、失業などなど)などの状況を押して、できるものでもないことは自明です。

ものごとには、「適した時期」があるとも思います。

人生というアップダウンを繰り返す中で、うまく波にのれるときに、ぱっと乗る。

いい波がこなかったら、じっと待つことも必要です。

待つことと、波にのること。この時期さえ大きくはずさなければ、あとはなんとかなるし、また、細くてもいいから、人とのコミュニケーションをつないでおくことでしょうか。

 

まだまだ、私はこれから卒業研究を締め切りに間に合うように仕上げ、単位もとっていかなければなりませんが、まさに趣味の世界であそんでいるともいえます。

こんなことに没頭できることに、ほんと,感謝です。

 

 

 

 

 

卒業研究の進み具合

11月1日の最終締め切りに向かって、おそらくゼミごとにステップがあるだろうと思いますが、私のゼミではとりあえず、10月1日がプチ締め切り(担当教員に提出)です。

普段の仕事で、「納期」にいつも追いまくられているため、この締め切りには異常なほど神経質になります。

つまり,毎日が締め切り日のような感覚に陥っています。そして、その完成形をつねに頭に思い描き、締め切り日あるいは納期から逆算して、ここまではここまで、やっておこうということを考えます。

最後の追い込みはおそらくパニックになる私にとっては、すこしでも先に進めておいて、ちょっと余裕かなぐらいまで最初を締めていきます。それが今日の夕方であろうが,一週間後であろうが、一か月後であろうが、同じです。

私にとって、論文を書くということは初めての体験です。なにもかもが新しく、とにかくいつも最初から壁にぶつかりっばなし。

今回も、分析ソフトを使って数字は出たものの、それをどのように処理していくか。

ここで、いままでとても苦労してみつけてきた、あるいはその研究意義などが、必要になってくると、いまさらながら思います。

つまり、この尺度をつくるにあたってどんなことを考えてきたのか、そもそも、なぜこの研究をしようと思ったのか、なにが知りたいのか、その問題意識が深くないと、最後の考察や、そもそもの問題の部分がかけないということです。

たえず、原点にもどり、人から与えられた問題意識ではなく、あくまで自分が解決したいと思った問題について、様々な手法を経ながら、その経緯をふくめ、記述していくことが求められるように思います。

私は、人になかなか尋ねることができず、自分でとにかくぎりぎりまで調べようとしてしまいます。

そうすると、情報があふれ返って、頭の中が飽和状態に。

 

ここで、以前読んだ本、「勉強の哲学」の言葉が頭をよぎります。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 ここで、著者は、教員の存在を、勉強のきりのなさに対する「有限化」してくれるものとして述べています。私自身は、今回のこの体験を通じて、やはり担当教員の存在はその情報の「有限化」としての存在であり、それ以上でも、それ以下でもないという印象を強く受けました。

それは、教員は学生を指導する立場であるわけですが、学生にとってはあくまで勉強するのは自分であり、ましてや教員に自分の研究テーマのすべてを話したり、わかってもらうことはできません。(自分でも、わかっていないのに、できるはずはないです)

私自身、この勉強が始まってから、そういうことは覚悟していましたが、やはり、大半は自分の試行錯誤です。

勉強というのは、自分で文献を読んで考察するのが本体であり、教師の話しは補助的なものです。

教師はまずは「このくらいでいい」という勉強の有限化をしてくれる存在である。                 (p182)  

とあります。

また、その教員が示した選択肢なども、一度は検討するものの、どうしてもそれが納得できなければ、(たくさん調べても)それは違うと判断します。それも自分ですることです。

このような作業は、やはり人によっては、教員が厳しいとか、冷たいとか、あるいは無視されたんじゃないかとか、感情的になることもあるかもしれません。

が、勉強が楽しいのは、それが自分で獲得していくものだから、だと思います。

もちろん、自分でなにもかもができるはずはなく、そこには多くの人の協力や支えがあって成り立つわけですが、自分の知りたいこと、研究したいことは、他人にわかってもらえる形にするまでは、ずーっと自分で考えつづけないといけない。

今回の放送大学もそうですが、通信制であることにかぎらず、たとえば独学してなにかを研究している人たちもたくさんいると思います。

それぞれの学びの形は違いますが、共通すること、それは自分が知りたいということについてどのようにアプローチし、それを自分で調べ、検証し、その時点での結果を導いていけるかだと思います。

ここまで書いて、なんか、教員という存在とはどういうものなのか、と考えました。

それは、やはり人として、その方がどのように生きてきたか、どのような考えをもって著作や論文を書いてみえたのか、ということを知ることが大切かなと。

つまり、その分野のエキスパートとして、どのように問題意識をもっていままで問題に取り組んでみえたのかを、自分なりに調べ、そしてそれを参考になる部分や、共感できる部分は取り入れていくことかなと。

あくまで主軸は「自分」です。

これらの体験は卒業研究に挑戦することで得られたものです。もちろん、まだ終わっていません。これから毎日が締め切りとしてこつこつ、最後まで走り続けていきます。

 

 

 

 

科目登録完了

卒業研究のゼミ、それに関連する様々な出来事や、連絡の取り合いなどで、あっと言う間に8月末。いつもなら、さっさと科目登録するはずがこんな時期になってしまったけど、今日登録完了。今回は、卒研の最後の追い込みを考え、一科目にしました。

 

科目登録は一応、認定心理士の資格申請にあわせて選択しますが、私自身、この資格をどうしても取りたいということではなく、科目選択の基準として考えていて、この資格に必要な科目であるということは、心理学を学ぶ上で最低限これらは知っておいていいというものなんだ、という認識で参考にしています。

資格申請のためのツールを使っているのですが、じつは、基礎科目である心理学概論のa領域で、おおきなショックを受けました。というのも、私は2016年に心理学概論(2012)の単位を取得しているのですが、なんと、これはだめみたいで、心理学概論(2018)をとらないといけないようなんです。(a領域の認定条件をみたしていません、という表示がでる) このa領域に関しては、以前こんな指摘はなかったと思うんですが、それは旧基準だったのかなあ、と。うーん、もう一回概論をとるのかーと。

今回はそれは来年にして、とりあえず、今期は生理心理学だけにしました。また、学習センターなど、どこかで聞いてこないといけませんね。

 

でも、ほぼ必要な単位はみたしつつあります。あと今期は、この卒業研究がどうなるか。うまく着地できるといいのですが。不安になりつつも、とにかくまとめてやるというより、一日一日こつこつと積み重ねていきたいです。

 

 

今期の単位認定試験を終了(全体の単位認定試験は今日まで)

昨日で私が選択した科目の単位認定試験は終了。

終わったらゆっくりしたい!と思っていたものの、今朝からの猛暑で、たまっている作業(家庭菜園の草取りなど)はちょっとできる状態ではありませんので、自宅待機です。

 

今期私が選択した科目は以下の4つです:

錯覚の科学

心理臨床と身体の病

交通心理学

心理臨床の基礎

 

どれも、講義をうけ始めるととても面白く、なんか、科目名は地味な感じですが、(そんなもんですよね。教科書って) 一つ一つの科目の世界はたいへん奥深く、もちろん、基礎の基礎部分ではありますが、心理臨床などは、入学してはじめて学ぶ部分 (概論では少し触れられていましたが) だったので、ほんとうにおもしろかった。

なので、今回は放送授業での講義、一回一回が印象に残っていて、そんなにきりきりと勉強しなきゃ、というスタンスでなくてもよかったのが,卒業研究で忙しかった身には助かりました。

それぞれの科目を少し振り返ってみます。

 

錯覚の科学

なんといっても、錯覚ワールドを存分に楽しめる講義でした。

講義の合間には、錯覚シアターや、錯視をとりいれたアート、また名画などにとりいれられている、錯視を使った技法など、とにかく講義がたのしい。

それと同時に、錯覚がおこるメカニズムや、そもそも、錯覚と心理ってどうしてむすびつくの、という疑問にもこたえてくれるものです。

私たちは目でものをみている、あるいは耳でなにかの音を聴いている、と思っています。しかし、実際は、それらの器官を通じて、脳で見て、聴いているんだということを知りました。そして、それらは私たちがよりよく生きていくためのものである、つまり、適応していくために必要なことである、ということだそうです。

認知心理学を学んだことと、重なる部分もあり、そういう面で、基礎的な知識のベースがあったことも理解を深める要因となりました。そう考えると、認知心理学などは、心理学を学ぶとき、最初のころに科目選択をしておくといいかもしれません。

 

交通心理学

そのまま、ずばり、交通に関する心理学です。人々の移動はまさに古くからあるわけで、その手段はさまざまです。私たち一人一人が交通参加者といって、歩行者であり、あるいは自転車、自動車、二輪車、車椅子などもふくめ、対象はすべての移動ができる人が対象です。

最近、車を運転する機会が増えた私にとってはまさにぴったりの講義でした。

実は、私はいまの車を購入する前(ほぼ3年前)まで、マニュアル車を運転していました。(私の世代では、教習所ではマニュアル車が主流でした)

でも、現在はオートマティック車を運転しています。車購入の際のマニュアル車から、オートマチックにすることに関して、不安があったので(オートマチックは楽だよ、とは言われていたけど)、やはりだれかにきちんと教えてもらいたいと思い、最初は自動車教習所にたずねてみたんだけど、断られました。で、ネットで調べて、個人的にきちんと教えてくれるところを探し、来ていただいて、新しい車に、一緒に乗っていただいて、教えていただきました。

そのとき、私には、よくない癖がいくつかあって、それを指摘されました。

まったく自覚していなかったことで、私は、オートマチック車の操作を教えてもらうつもりが、じつは、ここで私自身の運転のフィードバックをもらえたこととなりました。

これは、講義にも含まれているんですが、職業ドライバーのように、定期的にフィードバックや講習などがない、一般ドライバーは、経験を積むことにより、自分の運転技術を過信する傾向があるそうで、だいたいは、自分は大丈夫と思い込むようです。

もちろん、初心者のころと経験を積んできたころと比較すると、その注意の質が変わってきて、経験者ならではのよいところもあるようですが、過信はだれにでもおこることです。

私はよい機会にフィードバックを受けることができて、とてもラッキーでした。

運転する人は、年齢にかかわらず、定期的に自分の運転を見直す機会を設けるべきではないかと思います。とくにいまはドライブレコーダーをつける車も多くなっているので、それを利用して、できれば指導できる方とともにその動画をみて、検証する機会は必要ですね。同乗する家族から指摘されると腹が立ったりするものも、第三者からの検証は、案外素直に認めるものですね。

あと、小学生や中学生、高校生の交通に対する教育はもっと、必要なんじゃないかと。

講義中では、そのような教育の場面がありましたが (研究目的でもありますが) 、学校にこのような機会を設けることはなかなか難しいようです。

ちゃんと教育を受けた子どもたちは、きちんとそれを身につけることで自分の身を守ることができます。交通事故は、子どもたちにとってとても身近な脅威です。大人がずっとついていることができないからこそ、交通マナーをふくめ、自分が自分の身を守るんだという自覚をふくめた教育は必要だと、講義を受けながら感じました。

 

心理臨床と身体の病

この科目も、心とからだが別々ではなく、相互に影響されるものであり、からだの病は、ただ治療するだけでなく、心の面でもサポートする必要があるということを学びました。そしてそこで働く心理士のみなさんの実務と経験を講義の中のインタビューや、その施設内での仕事されている様子など、また講義を担当された講師のみなさんのお話はとても印象的でした。

私が印象的だったのは、周産期の医療をめぐる心理臨床です。

お産は、日本ではごくあたりまえに、母子とも安全がほぼ保証された状態でおこなわれているんですが、じつはとても危険な時期でもあるということと、それは、母子のからだだけでなく、心も不安定な時期であるということ、を学びました。

この時期の母子の心の状態が、その後の親子の関係におおいに影響をすること、そうすると、心理的にみても、この出産が母子とも、健康に、心が通い合いあったものであれば、その後の人生に少々くらいの難しいことがあっても、乗り越えられていく、大切な時期だということ、よーくわかりました。

 

そう考えると、この周産期の心のケアはもっと注目されていいのではないかなと思いました。

あと、第15回の講義では、各講義の講師が集まり、座談会ということでみなさんがお話されていた内容がとても印象的でした。

とくに、医療にかかわることから、それぞれの医療分野での専門知識を勉強しないといけないこと、実際に心理士から、医学部に入学し、卒業された講師もいらっしゃいました。驚くべきことですが、ほかの講師の方々もしきりに、それくらい専門性が必要であるとおっしゃっていました。講師のみなさんの仕事への真摯な姿勢にすごい、と思いながら、このような講師の講義を受けたこと、うれしく思います。

この辺も、放送大学のすごいところなんですよね。すばらしい講師陣なんです。

 

心理臨床の基礎

臨床心理学というのは、心理学とはどんな分野かと考えるとき、まず、思い浮かべる分野ではないかと思うくらい、よく知られているのではないでしょうか。(すくなくとも、私はそうでした)

ここでは、心理臨床の基礎、心理臨床アセスメント、心理療法、コミュニティ援助などが扱われています。

どの項目も以前から本を読んだりしていたものですが、このような講義を受けると、きちんと系統立てて学ぶことが大切だということを痛感します。あちこちつまんで読んでいても、頭にはいらないものです。

アセスメントは、去年の心理臨床の面接授業で経験しているので、その難しさをすこしはわかっているつもりですが、じつにさまざまなアセスメントがあるもんだと思います。

これが正しくできないと、診断できないし、治療方針もままならないでしょうね。でも、投影法など、経験が重ねないととても自信もってできないことなんでしょう。

 

ユングの深層心理などは、おもしろいし、興味深いものです。

心理学を学びはじめたころ、

 

まんが うつと向き合う―ユング心理学を用いたカウンセリング

まんが うつと向き合う―ユング心理学を用いたカウンセリング

 

 という本を購入して、読みました。

うつを発症した著者原作のマンガと、それを治療した、心療内科精神科医ユング心理学を専門とする臨床心理士の方々の解説が書かれています。

とくに夢については、絵に描かれているととてもイメージしやすく、カラーで描かれていて、その不思議さと、美しさにびっくりするくらいです。

そこでの、臨床心理士の、カウンセリングの様子などが描かれていますが、すごく不思議な感じでした。でも、これは患者であった著者の目からみた、カウンセリングの様子であり、印象なので、そのままをそのカウンセリングの様子とはできないと思います。

今回、あらためて、心理臨床の基礎を学んで、さまざまな先人たちの研究や理論が積み重ねられ、人間の心という得体のしれないものの病や、その治療に挑んできたことが少しはわかった気がしているわけですが、まだまだ、わからないことは山ほどあるものですね。

たまに友人から相談をうけると、安易に言葉をかけることをためらってしまいます。

それもこのような学びの中で、人の心の不安定さや、その人が自分自身で立ち直ろうとする力を応援するにはどうしたらいいんだろう、と考えあぐねてしまうからかもしれません。

 

今回4つの科目を履修した、私なりの感想です。講義をうける前と後ではその印象はほんとうに変わるものです。また次の科目選択にむけて考えていきたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

卒業研究は、アンケート作成までこぎつけました。

もう、単位認定試験が始まる時期となりました。

卒業研究にかかりきりで、放送授業はなんとか全部視聴はできたけど、まだきちんとテキストを読んでいません。でもどの科目も、とても興味深く、面白いので、去年統計の勉強で大変だったので、それに比べればまだ、なんとかなるかな、と、甘い考えではあります。

 

卒業研究の進み具合

ようやく、アンケートを作成して、ゼミのみなさんに何度もみてもらい、なんとか、まとまってきたというところです。

既存の尺度を使えばいいや、と安易に考えていたこと。

大きな間違いでした。

私が調べたいことでは、ぴったりとあてはまる尺度がなく、調査などをしたことのない私は、焦ってしまいました。

どうしたらいいのか、どうやってつくるのか。

もちろん、基本となるモデルはあるので、まったくゼロからの作成ではないものの、あわててしまいました。

自分が調べたいことが、先行研究の中のどんな理論を基礎とするのか、それを探すことにとても苦労し、迷走しながら、やっとモデルをみつけたものの、その理論に依拠する研究に使われる尺度は、そのままでは使えないことが明らかでした。

先行研究の文献(論文や書籍など)を読むと、尺度の作成には予備調査をすることや、またそこから再調査という手順を踏むようなことが書いてあります。

本当はそこまでやらなければ、より正しく測定できる尺度をつくることができないのでしょう。

しかし、時間も手間もかけられない、ということで、ひたすら、自分で考え、関連する書籍などを読み、作成しました。ゼミのみなさんにはいつも会えるわけではないので、そこは、現代の利器、ネットを利用して、途中経過として、できたものをアップして、みなさんに検討していただきました。

 

通信教育はインターネットを大いに活用

通信教育というのは、たしかに学校に行って、そこでゼミ仲間に会って話し合うとか、先生にアドバイスを頻繁にもらうことはできません。

でも、インターネットを活用すれば、時間も関係なく、自分の計画や、質問などもアップして、つながっているみなさんに発信することができます。

ただ、アップするまで、ある程度まとめたものをつくらないといけないので、そこが大変ですが、その過程で自分の考えをまとめようとするので、むしろ、中途半端にだれかに会ってきけばいい、ということにはなりません。

 

そこで痛感したのは、普段から何らかの形で誰かとつながっていることが必要だということです。こんなことを(アンケート調査など)しなければ、実感しなかっただろうと思うこと、たとえば、メールアドレスを交換している、連絡先の交換をしていること、いまは、ラインのグループなどをつくっていることなどなど。

 

もちろん、アンケートを送っていいかどうかの許可をもらうことは必要だと思うけれど、事前に了承を得ておけば、まとめて送ることができます。(しかし、これが正しいサンプル抽出かは、疑問ですね。なので今回限りとなりますが)

 

いまや、アンケートを、たとえば学校などの授業の際に行なうための許可を得ることがむずかしくなっているようです。

なので、インターネット調査会社にお金を支払って、調査を依頼することが 珍しくなくなっています。

研究費が準備されている調査などには大変便利ですね。

 

すべては勉強

ただ、これら一連の過程を経験することが、この卒業研究を履修する目的であり、学習するという観点では、うまくいくか、いかないか、というより、このような経験をすることが、大切なんだと、自分にいいきかせています。

時々、本当にくじけそうになって、もう、やめようか、と思うことは何度もありました。もちろん、これからアンケートの結果を分析する上でも、どんな結果がでてくるか、仮説をある程度フォローするものになるのか、ならないのか。それよりも、尺度の信頼性や妥当性などは大丈夫かなどなど。

 

心配するときりがないので、ま、とりあえずみなさんにアンケートを配布します。

 

ああ、どきどきする。

 

それもそうだけど、単位認定試験の勉強しないといけない。

大変だけど、自分のことで勉強できる、そんな時間を与えられていることにとても感謝です。

 

暑いけど、がんばろう

 

学び続けることについて Part 1.

今朝の朝日新聞、「経済気象台」コラムには、何度でも学べる社会に、というタイトルの内容がのっていました。

その内容のなかで、

国の調査をみても、民間企業における一人当たりの教育訓練費は1990年代以降漸減傾向にある。働き方が多様になり、転職で人材の流動性が高まっている折、一人ひとりが就職後も学びつづけ、専門性やスキルを向上させることが非常に重要になってきている。(L.36-47)

とありました。

まだまだ、大企業に就職したり、公務員になって、人生安泰である、という考え方も根強くあるかと思いますが、情報通信の発達や、多様な生き方というものを選択することができるようになった分、若者が、転職や、会社をやめるという選択肢もありかな、という世の中になってきたことで、企業も人を育てるという部分に関して、お金をつかうことが減ってきたのかもしれません。

多様な生き方とは、どういう生き方か。

たとえば、学校にいる間はとりあえず、短期の目標があります。

卒業するとか、あるいはもっと上級の学校にいくための準備とか、スポーツで大会に出場するとか・・・

でも、働くことが中心になった生活に突入すると、それはそれで、たいへんです。

一生懸命就活し、やっと入った会社で、とにかく慣れるためにはしばらくがんばらないといけない、とか、正社員とかじゃなくても、パートでも、アルバイトでも、とにかく働くことは、身も心もつかれます。

そんな状態で、がんばって、なんとか慣れてきた、というところで、時間に余裕ができ、いまの生活をあらためて見直してみたとき、なんとなく、このままでいいのかなと。

多くの人は、やはり、仕事を中心にしながら、休みにはすきなことをすればいい、と思うのはごく当たり前のことです。

 

学ぶことは、特別なことじゃない・・・働くことと学ぶこと

 私は、短大を卒業し、就職して、務めている間に、たまたま知り合ったいまの夫と結婚し、一年ほど、仕事と結婚生活を両立し、退職しました。

私は、働く職種に関しては、とても無頓着で、なおかつ、好奇心旺盛なので、まずは、結婚して、お腹に子どもを身ごもったときに、1カ月(夏休みくらいのあいだ) ほど、アパートの直ぐ近くにあったラブホテルの清掃係(ベットメイクとか、お風呂を洗うとか)として、働きました。

そこで一緒に働いていた方々のお話など聞きながら、人生いろいろだなーと。自分の知らない世界がそこにもありました。部屋を効率よく片づけることも(お風呂はつかったバスタオルで拭いちゃうとか、いろいろ) 教わりました。

そして、二人の子どもの出産と、彼女らが、保育園に入園のころ、今度は早朝の新聞配達をはじめました。帰りの遅い夫に子育てを期待するのは、きっぱりあきらめていたんですが、すくなくとも、このころ私自身は、小金をため、そろそろ、「勉強」をはじめようかなと、思っていました。ちょうど、そのとき、近所の朝日新聞の販売店で、配達員の募集がありました。

昼間は家事や子どものお迎えもあり、通常の昼間働くパートは難しいと思ったのと、ほぼ深夜に出勤するので、いくら帰りが遅い夫でも、深夜には帰宅して就寝していたので、(お酒を飲んで、かえってこないことも多々ありましたが) 子どもたちだけになることも少ないと、思ったことと、 新聞が大好きで、毎朝、新聞配達のみなさんはどうやって配っているんだろう、という興味もあったのです。

のちのち、そのたいへんさが身にしみるのですが、結局17年ほどつづけることができました。

そして、お金を貯めて、再開したい思った勉強は、英語でした。

再開、としたのは、私は短大で英語科に所属していました。もっとも、英語が好きだったわけではないと思います。英語は、たとえば、私が日本語を母国語として話すことができるように、それをつかって、なにかをする、という手段にすぎないわけですから、英語がつかえる、なにか、を探さなくてはなりませんでした。

といっても、そのときは英語の勉強を一から、つまり文法からはじめるために、週一でYWCAに通いました。

もちろん、新聞配達で稼いだお金で、といいたいところですが、べつにお金に色がついているわけでなく、夫の収入分は、そのころから、もうちょこちょこ自分のためにつかうということにはまったく抵抗がありませんでした。

ごく普通に、私は家庭のなかに自分の勉強をとりいれていきましたが、それが収入に結びつくことはありませんでした。ただ、外へでて、学校に週一でも行くことで、またいろんな出会いがありました。

けれど、ある意味それは自己満足のようなものだったかもしれません。

英検をうけたり、あるいは、もうちょっと進んで、テクニカルライティングというものをまなび、工業英検も受験しました。英語を学べるサークルのようなものに参加するため大阪までいったこともありました。

その後、新聞の求人欄に、特許明細書の要約を翻訳する仕事が掲載され、応募してトライアルをうけると、合格。(自宅で作業して、ネットを介して納品)

だいたい、当時は特許明細書などみたこともなく、とりあえず、PCに専用のソフトをインストールし、その会社からの案件をいただいて、わけのわからない、特許用語と格闘しながら、ひたすら、特許の要約の翻訳を(和訳)をしました。これが、はじめての英語を通じての、収入に結びついたものです。

働くことが、学ぶことと一体になるのは、本人の考え一つかもしれません。ただ、経験値を積むことは、その学びという営みの一つにすぎないかもしれません。

 

学ぶことは、結果を期待しつつ、模索し、もがくことかも

その間も、ずっともやもやしていました。私のしたいことはなんだろう。

新聞配達と、特許の要約の和訳、そしてまた、お金欲しさに、今度は近所の精肉屋さんにパートで働きに出るという生活。

自分でもあきれるくらい、くるくるとよく働きましたが、勉強していたい、学びたいという「思い」はずっとありました。

別に生活が苦しいというわけではなかったのですが (夫はまじめに働いてくれています) 、学びたいという思いと、なにを学んでいいのかわからないという思い。で、結局そのもやもや感から逃げるために仕事を増やしていたのではないかと、いま振り返って思うわけです。

 

上述の、コラムの執筆者は第一線で活躍している経済人、学者とありますので、まさに学びが、ご自身のスキルや、仕事に結びつくものであったわけですが、そのような学びだけではないと思います。

 

つまり、現実に就いている仕事とは関係ないことや、自分ではなかなか認識できないこと、なにを学んだらいいんだろう、ということがわからない人たちがたくさんいるのではないかなーと。

結果をだす、ということが、最終目標にはならない、と思います。

いまの歩んでいる、この毎日が、そしてそのなかで、一歩でも二歩でも、自分が学びたいことはなんだろうと、あきらめず、求め続けること。

10年単位で物事を考えることと、今日一日、明日までのことしか考えられないこととは、違うことではないと思います。

今日一日は、10年の重さがあり、また、10年は今日一日の重さでもあります。

心理学を学びながら、つくづく、人間という生き物、その思考や、存在が深いものかと感じるし、まだ、わからないことが次から次へとあらわれてきます。

 

つづきます。