放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

今一度、心理学を学ぶことについて

私の友人から、つい数カ月前に、心理学に関して、初心者でもよみやすい本を教えてほしい、と言われていました。

私にとって、しかし、どんな本がいいのかなど、あまりに難しすぎて、

「図書館や、本屋さんで立ち読みしてみて、読みやすそうな本からはじめてみたら」

と結構いい加減な返事をしていました。

しかし、そう言ってしまって、友人と別れたあと、私は、私自身も、放送大学で心理学を学んでみようと思ったとき、やはり、心理カウンセラーをボランティアでおこなった経験のある友人(産業カウンセラーの資格を取得されている)に、同じように、なにか本を貸してほしいと、頼んだことを急におもいだしました。

そのときは、本を貸してもらうことと、心理について、主にカウンセリングなどについて、いろいろなことを教えてもらい、とてもとてもうれしかったことを思いだしたのです。

こんなことを思い出したことで、私も自宅にある、少しでもとっつきやすいと思われる本をぜひ彼女に持っていこうと心に決め、会う約束をしました。

 

心理学って役に立つもの?

結局、私が持っていった本の中で、マインドフルネスに関する本や、ベストセラーになった、嫌われる勇気などのアドラー関連の本を彼女は選んで、読んでみる、ととてもよろこんでくれました。

いろいろ、話をする中で、彼女は、心理学というものに興味をもったきっかけを話してくれました。(彼女には私が放送大学で心理学を学んでいることは、前から話をしていました)

彼女は、家族で経営している事務所で働いています。

何人かの従業員もいるようですが、経営者である弟さんが、ある心理学のセミナーにとても熱心に通っていることと、彼女にも、そのセミナーの(と、いうか、ある種の自己啓発セミナーのようなものと思われますが)内容がかかれた本を勧められたりするそうです。

彼女が読んだものは、漫画になっていて、わかりやすく、なるほどなーと思っていたそうです。

経営者である弟さんが、あまりに熱心にセミナーに通うので(なかなか、高額らしいのですが)、そんなに役に立つのかどうか、ちょっと懐疑的にみているようです。

私は、経営者である弟さんは、やはり、会社の業績を上げたい、と思って勉強熱心なんだなーと思って聞いていました。

そのセミナーに関する内容は詳しくはわかりませんが、速い話が、経営戦略に役に立つものなんでしょうね。話をしていくうちに、彼女は、私の考える心理学というのはどういうものなの?   みたいなことを尋ねてきました。

 

私は、そのとき、

「疑うこと」

と、とっさに言ってから、自分で、あらためて、ちょっとびっくりしました。

彼女も、

「!?」

みたいな表情をしました。

そして、私は、私がほんのまだ、2年と少し足を踏み入れたこの世界には、たしかなものはなんにもなくて、ただただ、仮説と、それを証明するためのさまざまな実験や、検証をおこないつつも、わかることといえば、やっばり、人間はわからないことばかり、ということなんだと、話をしました。

つまり、知っていてよかったな、ということはあっても、確実に役に立つようなものではないんじゃないかなと。

 

今ここで、あらためて心理学を学ぶということは

彼女の弟さんは、経営者として家族や従業員を抱え、会社経営に携わることで、さまざまな勉強をしていくことは、当たり前のことでしょう。

しかし、なにか一つの考えや、方法だけに固執することは、結構危険な面もあると思います。

こうすれば、こうなる、的な方程式は、人間には通用するとは思えません。

懐疑的になってみること、そうすることで、より深く考えること、さまざまな状況にたいして、あらゆる想定をすることが必要になってくると思います。

 

私は、自分が思わず口から出た言葉に、びっくりするとともに、この懐疑心が、私の身体にちゃんと染みついてくれたのかと、うれしくなりました。

だいたい、私は人の話を鵜呑みにしたり、すぐ、感動してしまったりと、結構「素直」な人間だったのですが・・・。最近は、なんでも、つっこみをいれるようになっています。

 

彼女は、でも、私の話をとても興味深く聞いてくれました。

まだまだ、私は勉強をつづけていくつもりなので、ぜひ、また今度会うときは、おもしろくて、あんまり役に立たない、心理の話(人間のおもしろさ)を話せるといいなーと思って、別れました。

 

彼女もさまざまな悩みをもちつつ、人生を歩んでいますが、これをきっかけに、またなにかを学ぶような、(別に勉学的なものでなくてもかまわないから)新たな生活に目を向けてくれるとうれしいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

卒業研究無事終了しました。

口頭試問会が終わり、卒業研究は無事終了しました。

が、来年の2月に成績結果が送られてくるようなので、そこで合否がわかることになります。

ここまで、夢のようだった、とはいいません。

あっと言う間だった、というのも違う様な気がします。

たしかに、毎日が格闘し、常に考えつづけていた時間は、存在し、濃密なものだったと思います。

そして、なにより、私自身が変わったと思えることがあります。それは、ものの見方について、です。

 

問いを立てるということ

論文のテーマを絞っていく過程で、自分でなにを知りたいのかを常に意識するようにすると、あらゆることについて、立ち止まって考えるようになりました。

以前は、ある情報について、それを受けると、それはそういうものだろうととくに疑問をもつことなく、受け流すような感じでした。それを意識したことはなく、また、メディアの情報についても、感動的な話であれば、すなおに感動し、理不尽だと思えば、腹を立てながらも、世の中そういうもんだよね、という態度だったと思います。

けれど、そこに、いちいち、つっこんでいくようになりました。

さらっと、受け流せないようになっていった自分がいました。

それは、自分自身にも向けられていました。

たとえば、満員電車の中で、大きなリュックを背負っている人が目の前にいると、ムッとします。でも、なぜ、(私は) ムッとするのか。それは、リュックがあたるかもしれないし、だいたい、なぜ、(リュックを背負っている人が) そんなこと気がつかないのか。でも、その人にとって、そのことは問題となっていないことであり、別のことで頭が一杯なのかもしれない。だいたい、リュックを前にするとか、後ろにするとか、それがどれほど大切なのか・・・・。私がそのことについて、自分の都合で考えているのはおかしいのではないか。正しいこととか、間違っているとか、どういうこと?   みたいな。

 

つまり、自分のそのときの一瞬沸き上がった(ムッとした)感情は、どこからきたのか。その他にも、自分が自分の価値観で人をみていると気づくことが多くなりました。

 

もちろん、人は自分の生まれ育った環境や、時代に影響されていきます。それを通して物事を判断していることは避けられないけど、それを自覚することはできます。

 

つまり、あらゆるところに、なぜ、が転がっていたことに、いまさらながら気がついたのです。

 

これは、もう、前にはもどれません。いや、もどりたくないと思います。

私が社会人として、そして、もう人生の還暦を迎える年に近くなって、このような経験をしたことは、とてもよかった、と思います。人生の来るべき、誰でも迎える締め切りに間に合う気がします。

論文の締め切りは、終わりましたが、人生の締め切りにはまだ、少し時間があります。

 

人には人が必要

今回、ゼミに参加するという機会を得て、まさにおなじ目標に向かって走った仲間がいました。

それぞれが、いろいろな環境の中で、自分のテーマをもち、最後まで一緒にたどりつくことができたことが、とても大きな連帯感をもたらしました。

まさに、戦友という感じです。そこには、個々が自分のやるべきことに格闘し、決まった時間に会って、お互いのテーマについて、その内容を意見し、見直し、そしてまた意見を言い合う仲間です。

放送大学に限らず、通信制の大学などでは、この人と人が会う機会がなかなか少ないことが卒業研究に限らず、モチベーションが保てない要因となります。

私は、ゼミがおこなわれるところから、新幹線を使わないといけない距離に住んでいくことから、とにかく、欠席をしないようにしました。ゼミでちゃんと発表できる自信がなくても、とにかく、出席すること。みんなに会って、いまの研究の進み具合を正直につたえ、みんなの意見を聞くこと。

自分がつまずいていることや、問題点が自分ではわからないけど、ゼミの仲間なら、いままでの過程も知っていて、適切に意見をいってくれる。

これが、本当にすくわれました。

それは、ダメだしであったり、批判だったり、様ざまですが、なんでもいいから、一杯意見をもらうことが必要でした。

社会人になると、ましてや、子育てをしたり、まわりがどんどん年下(職場でも)ばかりになってくると、意見をいってくれることはぐっと減ります。

自分の未熟さを指摘されることは、とても痛いことです。心が折れそうにもなりますが、まだ、自分にはそれを受け入れるだけの、柔軟な心をもっている、と思えば、ありがたきこと、と受け止めていけます。

 

これは、一人ではできません。今回は、このゼミの先輩方からも、本当に多くの助言をいただきました。何度も、訂正し、作り直し、をおこないました。

人は人から助けてもらえるものだと、つくづく思いました。

 

次へのステップ

ようやく、テーマを離れて、とりあえず、気の向くまま本を読めることで、やっと終わったんだーという実感をしています。

今度は、どのようなことに取り組んでいこうか、すこし、この休みの間に考えつつあります。

私の脳がどこまで、働いてくれるか未知ですが、徹底的に負荷をかけ続けること、これしかありませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもの頃の思い出は本物か    カール・サバー著     訳者 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也

記憶に関する本を読みました。

 

 目次

 第一章 何年も忘れない

第二章 幼児期健忘

第三章 自分が何者かをどうやって知るのか

第四章 記憶の再構成

第五章 記憶戦争の勃発

第六章 偽りを演じる

第七章 信念の限界

第八章 セラピーの犯罪

第九章 イメージを信じて

第十章 虐待される真実

第十一章 フレイド家の確執

第十二章 真実、あるいはその行く末

 

 

 

子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき

子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき

 

 

 

 

近所の図書館は、小さな図書館で、蔵書もそれほど多くはなく、(いろいろ工夫されてはいますが)、設備もいろいろと考えさせられることもありますが、しかし、案外掘り出し物があります。

本屋でも図書館でもそうですが、ネットで注文するものとの唯一の違いは、実際に手にとって品定めができることと、本棚をざっとみることができる、ということだと思っています。

地方の小さな図書館には、そんなに専門的な本はないだろう、とたかをくくっていると損をするな、と思えたのは今回の本との出会いです。

 

 

記憶についての学習

私自身、記憶というものを学習することができたのは、もちろん放送大学の授業、認知心理学の授業です。(高野陽太郎先生)

記憶、とは、認知心理学の分野ではとても大きな部分をしめているのではないかと思うのは、私たちが生活する上で、記憶することが様々な活動の基礎となっていると思えるからです。

言語能力の獲得や、さまざまな経験というのも、それらを情報として取り込まないと、使うことはできません。

コンピュータなどの外部記憶と呼ばれるものが、なぜ脅威と感じるのか。それはその記憶能力だと思います。処理する能力も勿論ですが、まずはデータをのみこむその速さと量。私たちがたとえば一度に憶えることができる量 (作業記憶) として、7つプラスマイナス2(マジカルナンバー)というものがあります。

記憶関しては、とにかく苦い思い出がつきまとうものですが (受験期や買い物での物忘れなど)、この本では、その記憶が、たとえば子どもの頃の記憶という特定されたものに関して、深刻な問題を引き起こしていることを、さまざまな研究や、社会的な問題を通して、問題点を提起しています。

 

著者のカール・サバーは、

作家、ジャーナリスト。キングスカレッジ(ケンブリッジ大学)で実験心理学を学ぶ、

となってます。

この本では、全体を通して、心理学の様々なすぐれた実験や知見を通して、記憶研究を紹介しています。そしてなかでも、記憶という途方もなく、わからないことが多い研究であるがゆえに、様々な問題があることを、この本の後半には紹介されています。

 

ところで、著者の、心理学という学問に対するリスペクトをとても感じます。例えば、このような箇所です。

ケンブリッジ大学で古典的な実験をおこなったフレデリック・バートレットの有名な実験のことについて

バートレットは、科学的な心理学と認められるのは、複雑で専門的な知識を生み出す場合だけであるとは考えなかった。心理学の科学的探求から生まれる発見は「常識」を確認しているにすぎない、と批判されることがある。物理学であれば、たとえば、原子の存在を私たちが直にかんじることはない。そのため、日常生活から経験的に身につく原子についての常識といったものはなく、その意味では、原子を理解するのに常識は役立たないだろう。だが、記憶に関しては違う。記憶というのは脳に「痕跡」として刻みつけられ記録されるものだ、という常識を私たちは持っている。バートレットは心理学の優れた実験によって、一般常識よりも記憶について正確な理解がえられることを示している。   P94

 

さて、その幼児期の記憶に限らず、記憶とそしてそれを思い出すということがどういうことなのか。

最近になって、脳の研究が一段と進み、新しい知見が続々と示されています。

本の第一章から第四章まで、記憶についての心理学実験を通してわかってきたこと、幼児期の記憶について、その記憶の想起について書かれています。

つぎの第五章からの、「記憶戦争の勃発」へと、つながっています。

 まったく忘れ去ったものを、あるとき突然思い出すということがありうるのか。

そのわすれていたものを、では、正確に思い出すことができるのだろうか。

記憶はビデオテープのようなものではない、ということがわかってきています。

それを自由に巻き戻したり、特定の場所で停止して、そこをじっくり検証するなんてことはできない。

つまり、記憶に関してはまだわからないことばかりなのに、その記憶がとんでもない「事実」をつくりだし、実際の法廷での争いになり、無実の罪に問われる可能性が出ているというのです。

 

記憶を証拠とする

本では、記憶の検証がいかに困難か、様々な実験を通して述べられています。

そして、たとえば幼児期にトラウマとなるような出来事を、まったく忘れ去っていたにもかかわらず、あるとき、それを「思い出」し、法廷での争いになることもあるようです。

実際、幼児期に虐待を受けた、という人が、なにかのきっかけで、それを「思い出す」場合があるようです。

しかし、その「思い出したこと」は「本当に思い出した」ことなのか。

たとえば、社会人となり、様々なストレスを抱え、人間関係がうまくいかないなどの悩みを抱えたとき、誰かのアドバイスで、過去になにかあったのではないか、というものがあります。

そうすると、私たちは、たとえば母親から、小学生のころ、とてもきつく叱られたこととか、なにかを買ってもらえなかったことなどを思いだすことがあります。

そのことがなにかのきっかけになっているのではないか、といわれると、精神的に安定しているときは、そんなこと、大したことじゃなかったと、否定できるのに、不安定であるとき、なぜかそれを過大にとらえ、現在の不安定な状態は、子どものころに受けた「しうち」が原因ではないかと思う可能性はあります。

 

本の中では、数十年も気がつかずにいた子どもの頃の記憶が証拠となって、その記憶をもとに有罪判決がくだされた裁判や、また、子どもたちの証言だけを証拠として、有罪判決がくだされた裁判などが取り上げられています。

 

また、宇宙人に誘拐された「記憶」を持つ人や、前世を信じる人たち(何度も生まれ変わってきたことを憶えている)などがいることも紹介し、このような、一見荒唐無稽な記憶を頑固に信じ続ける人たちのことと、性的な虐待を過去に受けたと「記憶」する(あるいは、思い出した)人たちとの共通点をあげています。

 

そして、この扱いがとてもむずかしい記憶問題について、心理療法家などがおこなうカウンセリングが引き金になっていることも提起されています。訴訟社会の米国などは、カウンセリングを受けて、そこから、親からの虐待の記憶を思い出し(実際にあったかどうかの疑念をはらむものもあり)、訴訟となったケースが多々あったようです。

 

記憶の重要性

記憶は、私たちが生きていく上で、欠かせない能力です。

でも、一番大切なことは、記憶と自分自身のアイデンティティとがつながっていることであり、自分がこうありたい、と思うように記憶をつくっていくのではないか、と書かれています。

過去にどんなことがあったのか、その細部を記憶することよりも、その記憶でどんなことが必要なのか、そしてそこから自分が理想とする生き方を学びとること、経験がいかせるように、未来をつくっていくことが、記憶の大切な役割であるといえます。

もし、過去に問題があって、それが原因でいまが不幸だと感じるなら、その過去を、変えることができるわけです。

つまり、過去の記憶を意図的に自分で変えてしまえばいい。

 

自分の記憶の不確かを逆手にとって、すべてを良いことばかりだったと思い込むことは、悪いことばかりだったと思い込むよりずっと健康的です。

本書の中で現在は過去からできているのではなく、あくまで、いま、つくっていくものであり、過去は現在のあり方で、つくっていけるんじゃないか。

本を読んでそんな風にも考えることができました。

 

本書を通じて、多くの心理学者が登場します。そして、過去のすぐれた研究、心理実験、論文が紹介されています。

記憶など、とてもむずかしい問題に取り組む多くの研究者たちの苦闘が、しみじみと伝わってくるし、きっぱりとした結果が引き出されてくるわけではないけれど、そのチャレンジする姿が、胸を打ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

souvenir the movie  竹内まりやさんの映画みてきました

お久しぶり!のまりやさん。

 

ラジオで、何週間か前に、まりやさんがライブ映画のことはなしていたけど、その時点で、東京だけかなと思っていて、すっかり忘れていたのに、クイーンの映画スケジュールをチェックしていたら、なんと、竹内まりやさんのライブ映画が上演中!!

 

しかも、もう、終わってしまうなんて。

仕事帰りに急遽、ミッドランドスクエアで観てきました。

 

果たして、涙無しでみることができるだろうか、おとなしく座っていられるだろうか・・・など、余計な心配をしつつも、第一曲目が始まるとすべてが吹っ飛んでしまいました。

胸が一杯で、生ライブではないけど、映画館の中の、閉ざされた空間に響きわたる、まりやさんの歌声と、圧倒的な音楽・・・

久しぶりに大音量の音の波が、きらきらとして私のからだを突き抜けていきました。

なつかしい曲と歌声。

かつて、まりやさんの、旦那さんでもある山下達郎さんのライブ映画も観に行ったこともあり、また、学生時代にはライブも行きました。

しかし、まりやさんのライブは行ったこともなく、だいたい、回数が少なすぎるし。

とにかく、ずーっと椅子の上で、からだを揺らし(左右隣、前後もいませんでした)、あーこれがコンサート会場なら、とスクリーンの中のお客さんがうらやましかった。

知っている曲のオンパレード。

そして、曲が流れると、私の頭の中にはその曲を聞いていた私自身の思い出が次々と。

 

 才能豊かな男女の支え合いは成り立つのか

映画は、コンサートだけでなく、まりやさんのインタビューや、スタジオなどでの収録があり、大滝詠一さんとの写真など、ゆかりの人びととの場面もちりばめられています。

私的には、これらの部分は、なんか別にドキュメンタリー風にして、例えば、BSなどでやってもらいたいなーと。せっかく映画館なので、コンサート場面だけでもよかったかなと、正直思いました。

もっと、まりやさんの歌を聴きたい!と強く、思いました。(強く!!)

夫である山下達郎さんとの関係についても話してみえました。

まりやさんの、山下達郎という、才能豊かで、尊敬でき、一緒にいて楽しい人である、と言っていたことは、そうだろうなーと。

おそらく、まりやさんのように、自身が才能豊かで、表現力のある人が惚れるひとは、ある意味、圧倒的な才能がある人でないと、このような言葉はでてこないだろうと。

つまり、同じ分野の才能がぶつかるとき、それは、相手が中途半端な実力であれば、逆に嫉妬になったり、私の方がもっとできるのに、とか、本人も苦しむだろうかなと。

あくまで、私の推論ですが・・・

もしも、山下達郎というひととめぐり合わなかったら、まりやさんは、より多くコンサートを行い、より多くの曲を書き続けていたのだろうか。

これは、もしも、という問いなので、答えはありませんが、そのような生き方もあったかもしれませんね。

 

久々の音たちの中で身を任せる心地よさ。

 

また、コンサートにいってみたくなりました。あ、つぎはクイーンの映画にいかなきゃ。

 


「souvenir the movie 〜MARIYA TAKEUCHI Theater Live〜 」特報映像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最強の集中術 ルーシー・パラディーノ 著 訳者 森田由美

卒業研究が一段落して、やっと読書を楽しめる気分になりました。

卒業研究に挑戦しよう!と思ってから、実際に取り組んで、ゼミにも参加し、とりあえず大学に提出するまでの間、そのテーマを探すことや、そのテーマにかかわる文献以外の文献などはほとんど、読む気が失せていました。

その間、約2年間。

あっと言う間だった、というのが正直な感想です。

(でも、もちろんまだ終わってはいないので、これからまだ口頭試問にむけての資料づくりがあります。)

その間、とても大切だったことがあります。

それは、締め切りを意識するということ。これは別に卒業研究に限らず、どんなことにもいえることすが、今回特にこの意識が大切だと痛感させられました。

なぜ、今回痛感したのか。

それは、卒業研究という私にとっては前代未聞の大きな取り組みであり、本当に仕上げることができるのか、というしつこいほどの不安に常にさいなまれていたからです。

なぜ、そんなに不安だったのか。もちろん、経験したことがないことにチャレンジすることはこれだけではないのですが、今回は、「統計分析」という作業がありました。

アンケートを行い、それを分析して、結果を出し、考察をする。

この分析の箇所が、かなりのプレッシャーになっていました。因子分析と重回帰分析をおこなうにあたって、重大なミスがあったらどうしよう、とか、数字をみることで自分に分析なんてできるのか、とかとか

先行研究をみれば、これらのことは当たり前としておこなわれているし、できないことはない、とは思いつつ、いつも一歩進めばまた、壁にぶつかり、の繰り返し。

つまり、私はこの取り組みにかなり神経質になっているし、おそらく締め切りぎりぎりでは冷静な分析などできない、ということがわかっていました。

 

つまり、分析はすくなくとも、締め切りの2カ月前には終了し、残りの2カ月は、粗削りでも、なんとか文章にしたものを、ひたすら見直し、余分なものを削る作業だけに集中することに決め、かなり早めのしめきりを自分なりに設定して、やってきました。

 

まず、集中して物事をおこなうために必要な鍵として、自分を知ることは有効なようです。

今回、自分が試行錯誤して格闘したことが、こういうことだったのかとわかった一冊です。

 

最強の集中術

最強の集中術

 

 

 この本は、集中する、あるいは、別の言い方をすると、注意を注ぐことの重要性について述べられています。著者は集中力を専門に研究をしつつ、臨床心理士としてカウンセリングもおこなっています。

 

集中力とは

物事に集中しているときとは、言い換えれば、あることに「注意を向けている」状態です。

この注意力を管理するスキルが、いわゆる、集中力を高めるためるスキルであるとしています。

この集中力のスタイルは人によって異なるので、自分がどのようなタイプなのかを少し考えてみることもいいかもしれません。

でも、どのようなタイプであれ、幾つかのスキルを知ることで集中力を高めることができるとしています。

集中というと、なにか大きなこと、例えば、試験勉強とか、スポーツの試合などのような非日常でのことを思い浮かべがちですが、もちろん、そのような場面でも必要ですが、日常的な場面で、案外私たちは注意を向けておこなうことができにくくなっています。どうでもいいことにふりまわされ、注意は細切れになり、結果として、日々達成感がないような時を送ってしまうことがよくあります。

例えば、自分にとってつまらないことでも、先延ばしせずに、必要なことをきちんと決められた期日までにおこなうことができることも集中力が必要です。

その小さな集中力の積み重ねが、小さな達成感を生み、成功体験となり、より大きな目標を定めたとき、自分への信頼となって、目標達成への成果となることでしょう。

 

では、いまなぜ、このような集中力が求められるのか。

それは現代のライフスタイルに理由があるといえます。

スマートフォンやインターネット、Wi-Fiの普及によって、私たちの生活はたえず、注意が散漫になりがちです。一定の期間、一つのことをなし遂げるというにはあまりに誘惑が多い時代です。ゲームやSNSなど、注意をそらすものはいくらでもあるからです。

 

集中力と刺激

集中力と刺激の間には相関関係があることは、十分確認されている事実だそうです。この集中力を理解し、その管理法を学ぶにはこの両者の関係性が重要になり、刺激の適切なレベルが集中力を発揮させるようです。

心理学では人間の脳の興奮度を「覚醒レベル」という言葉で説明するが、この覚醒レベルは生理学の用語でこれは、体内のアドレナリンの分泌量に比例するようです。またこのアドレナリンの分泌量は本人がどれくらい興奮しているかに左右され、覚醒を活性化または意欲とも呼ぶことあるようです。

覚醒とアドレナリンは、興奮するほど多くのアドレナリンが放出され、この放出によってますます興奮が高まっていく。逆もありで、興奮がおさまるとアドレナリンの放出量が減り、そうするとますます興奮が醒める。

刺激が多くアドレナリンの分泌量が多すぎると、脳はオーバーヒートをおこす。緊張のあまり頭が真っ白になるというのはこういうときに起こるようです。

逆に刺激が少なすぎると、アドレナリンの量が少なくなり、やる気をなくしてしまう。動機付けが得られず、倦怠、停滞、意欲喪失に陥る。

刺激が適度なレベルにあると、脳はリラックスしつつ、覚醒した状態になり、意識がクリアとなり、目の前のことに没頭することができる。

アドレナリンの分泌を最適にするにはどうしたらいいのか、というところですね。

 

逆U字型カーブ

集中力と刺激との関係を示す曲線グラフで、心理学者のロバート・M・ヤーキーズとジョン・D・ドットソンが1908年に考案した、「ヤーキーズ=ドットソンの法則」というものがあります。この法則では、覚醒レベル(刺激レベル)が高まると課題の成績(集中力)も向上するが、覚醒レベルが一定限度を超えると、逆に成績が低下するというものです。横軸が刺激、縦軸が集中力となっていて、刺激が最適なときに集中力がピークとなり、その両側がそれぞれ刺激が弱いところと強すぎるところになっています。

ヤーキーズ・ドットソンの法則 - Wikipedia

 

刺激はアドレナリンの分泌量でもあり、ゾーンにはいれず、自分の集中力がコントロールできないときは、自分のアドレナリン分泌量と目の前の状況の間に不均衡が生じているとしています。

 

集中力を取り戻すために

このような刺激の強さによるアドレナリンの増減についてコントロールする方法はあるのか。

スポーツの世界で取り入れられている方法を取り入れることで、対処する方法が紹介されています。

➀ 一旦立ち止まり、自分がゾーンの外にいることに気付く

② ゾーンに戻るための対処法を実践する

 

著者は心理学の認知的手法を使って、考え方を変えることで行動や感じ方を変化させ、結果として集中力を高められるようなスキルを紹介しています。

ただ、本書では、個人によって様々な条件が異なり、刺激への感受性や、環境などによって対処法は異なることから、まずは自分が陥りやすいタイプを知って、対処を利用することを勧めています。

以下に本書で紹介された集中ゾーンに入るための鍵を参照します。

 

感情スキル、思考スキル、行動スキル

8つの鍵はそれぞれのスキルを高めるためのものです。

感情スキルは、第一の鍵から第五の鍵までで高めることができる

思考スキルは、第六の鍵から第七の鍵までで高めることができる

そして

行動スキルは、第八の鍵で高めることができる

としています。

 

感情スキル

 鍵が一番多いスキル。思考スキルとも重複する部分が多いのは、感情を生み出す脳内回路と思考回路を生み出す脳内回路は複雑に結びついていることから、だそうです。

第一の鍵  まずは自分を知る

第二の鍵  気分転換のすご技

第三の鍵 先延ばし撃退法

第四の鍵 不安を打ち負かす

第五の鍵 緊張をコントロール

 

感情スキルとは

自分の気持ちを感じとり、それを極力自分のプラスになるように調整すること、としています。

感情を調整することはむずかしい、というか、沸き上がってくるものだから、気がついたら、不安になっていたり、怒っていたり、あるいは楽しくなっていたり。

そんなの調整できるの?と思ってしまいますが、考え方を変えることによって、思考の変化にともなって感情も変化する、としています。

不安な気持ちがある状態で、たとえば、スケジュール管理ソフトを使おうとしても、使えない、使うどころではない、となってしまう。

第一の鍵では自分を知ることで感情スキルをコントロールしようとします。

ここでは、「心の番人」が紹介されます。心理学では、マインドフルネス(観察する自己)と呼ばれるものです。

すこし距離をおいて、自分の様子を観察してみる。なにをすべきなのか、なにをすべきでないのかを教えてくれる存在です。

 

やるべきことがあるのに、それをやらない。それはそれはなぜか。

たとえば、私などもよく陥るんですが、やらなければいけないことに向かおうとすると、別のことをやり始めてしまう。よく、机の周りを片づけ始めてしまうとか、あります。それは、やるべきことに対して強い不安がある場合など、その不安が邪魔をすることが多々あるわけで、そこから逃げない気持ちが必要になるようです。

あれもこれもという忙しさというのは、本当にすべきことから逃げているときに、その不安さから逃げるためのものであるかもしれません。

本当に対処すべきことに立ち向かったとき、不安は消え、集中力を発揮して取り組むことができるのでしょうね。

 

第二の鍵は気分転換のすご技です。

それは4点呼吸法とパワーブレイク、そしてながら作業を使いこなすというもの。

それぞれ、テクニック的なものですが、要は、なにかに集中しかかって、すぐ別のことをしてしまう、という注意力が散漫になるとき、ある一定の休憩をいれて、またやるべきことに戻ること。いまおこなっている作業がどのような作業なのかによって、休憩の方法は変えることが効果的なようです。

また、ながら作業というのも、取り入れ方によっては効果的なようですが、人間の脳とは同時に複数の作業を同じレベルでおこなうことはできず、両立させていると思っていても実際の作業効率は下がります。なので、たとえば、作業しつつも、メールチェックをするというのは、むしろ、メールチェックをして気分転換している(休憩)ということになるようです。

 

私はラジオが大好きなので、ついつい、ながら作業にラジオを聞いてしまいますが、ラジオが面白ければ、作業には身が入っていません。そして、作業に集中してしまっていると、ラジオの中身はまったく、頭に入ってきません。

ながら作業というよりも、むしろ気分転換や、なにかをおこなうときのルーティンのようにして、軽めの音楽を聞いたり、深呼吸をしたりと、不安な気持ちを和らげるツールとして利用することがいいようですね。

 

第三の鍵は、先延ばし撃退法です。

先延ばしは、恐怖心に根ざしているということで、この第三の鍵と、第四の鍵(不安を打ち負かす)、第五の鍵(緊張をコントロール)はどれも、自分がなんとなく感じている恐怖心に気付くための方法でもあります。

恐怖心を感じると、ヒトは脳を含めて体内にアドレナリンの濃度が急激に上昇し、脳の原始的な防衛本能を司る部分からノルアドレナリン(アドレナリンの一種で恐怖に反応する物質)が分泌されるそうです。その場合、攻撃するか、逃げるかという体勢となると、怒りのモードと同時に不安や心配、自責などいらだちに起因する感情がうながされるようです。

先延ばしをする人の不安とはどんなものか。

失敗への不安

成功への不安

言いなりになることへの不安

があるようです。

これらに対処するために、ここでは自信を培う、やる気に火をつける、過去を語り直す、などが挙げられています。

自分を信じ、目標を明確にし、達成する条件をつくり、前に進むことを重視することなど。これは、まさに私が研究に取り組んでいたときの対処法でした。とにかく途中経過のなかで、完璧は目指さない、前にとにかく進むことを重視しました。といっても、最終的なチェックでは、かなり、細かい箇所を見直しました。

カレンダーに自分なりの締め切りを書くと、自然とその目標に沿ってできることがわかって、かなり気持ちは楽になったものです。つまり、自分は案外、できるんだという自信が沸いてきました。

 

もし、ひんぱんに先延ばしする癖がある場合は、過去をふり返ってみることも効果的なようです。気がつかないうちに、過去に経験した感情から、そこに縛られ、また同じことを繰り返してしまうという可能性もあるようです。過去を新たな目で見直すことで、たとえ過去の出来事であっても、いま、自分がその過去の状態をみつめ、いまだったらどのように対処できるか、など想像力を働かせることで、修正し、先延ばしの癖を脱却できることも可能なようです。

 

第四の鍵は、不安を打ち負かす、です。

不安というと、なんとなく漠然としていて、それがいっそう、気持ちを不安定にさせます。

この不安と向き合うことで、対処していこうというのが、この鍵です。

その対処として、

現実性をチェック

対処プランを考える

思考の置き換え

が提案されています。

不安の種類を検討してみます。その不安は正当な不安なのか、根拠のない不安なのか。

ここで、第一の鍵で登場した、心の番人を呼び出し、自分の不安を客観的に観察することですこし冷静になってみること。

そして対処方法を書き出してみること。実行できる、具体的で前向きなプランを立ててみること。それだけでも気分が落ちつきそうです。

また、意図的に意識を別のことやものにそらしてみる。思考の転換というものらしいけど、オリンピック選手などがこのようなメンタルトレーニングをおこなうようです。

頭の中だけで、自分のストレスをコントロールできるなんて、すごいですね。でも、思考を変えることができると、かなり心が自由になる気がします。そんなリラックスした状態で、初めて集中することができるんでしょうね。

不安を打ち負かすというより、不安をくるっと裏返すような感覚です。

 

第五の鍵は、緊張をコントロール、です。

ここでも、心の番人が活躍します。緊張は怒りもともなうものでもあります。なにかに不安を抱きつつ、その不安の原因がはっきりしない(はっきりさせたくないという無意識の行動もあるかもしれません)とき、ささいなことで、怒りを爆発させたり、それを繰り返してしまうようになります。心の番人を呼び出し、自分が本当に不安に感じていることはなにかを、冷静に、探し出してみること。

それはひょっとしたら、ささいなことかもしれないし、それが不安となって、関係ないところで、怒りとなってしまうこともあるようです。

 

 どこかで無理をしていないか、自分をよくみてもらいたい、認めてもらいたいなど、自分の心の範囲を超えた期待や、行動に押しつぶされそうになっていないか。

それらをすこし、整理し、心の番人に判断してもらうのもいいかもしれません。

緊張と怒りは、つながっているものなんですね。

 

つぎは、集中ゾーンに留まるための思考スキルです。つぎの6と7の鍵は前頭葉を鍛え、注意を乱す様々な要因に対処できるものとしています。

 

思考スキル

第六の鍵 やる気を奮い起こす頭の使い方

ここでは、不安ではなく、欲望を原動力にすることをメインとします。感情スキルは主に、物事への取りかかり、集中状態では、頭の中はその維持に必要な化学物質が分泌されています。セロトニンドーパミン、そしてノルアドレナリン

セロトニン分泌はリラックスの作用を与え、ドーパミンは欲望を原動力とし、目標や報酬に応じて分泌され、ノルアドレナリンの原動力は不安であり、脅威を察知すると分泌され、攻撃、逃避反応を引き起こすものですが、これもうまく使うことで活力を引き出すカンフル剤となるようです。

欲望とは、自分が心からやりたいことをやり遂げたいと思うこと。

ただ、そのモチベーションを保ち続けることはむずかしい。

そこで、その目標が自分にとって実現可能なものか、また、その目標の志についてのビジョンも必要になる。

また、他の人や、数値にふりまわされず、自分のペースを守ること。そして、自分が成長することに焦点をあてること。

スポーツ心理学では、このような目標設定までの道のりを階段づくりにたとえるそうです。一つ一つの段の幅と順序に気をつけることで、この階段を登ることで自然と頂上にたどりつける。

また、柔軟性をもって、物事に対処することも必要です。どんなことも完璧にはできないことが多いはずです。

そして、究極は、死の間際にどう思うか。最終地点にたどりついたとき、様々な雑念はどうでもいいと思えるようになる。つまり、なにが大切なのかを見極めるとき、いまをみつめることができるようになるからでしょう。

 

第七の鍵、段取りを整える

個人的には、ここが一番私にとって集中に入りやすい鍵かもしれません。

段取りを整えることで、決まった手順に沿っておこなう安心感も得られます。

締め切りから逆算していくと、ここまでにはこれをやっておこう、などと細かく目標を立てることができます。

目標を意識することでドーパミンの放出を、段取りの安心感からセロトニンが分泌され、注意力を高める脳内化学物質のバランスが整うようです。

段取りづくりとは、不安を抑え、明確な枠組みをつくることです。

そしてそのためのスキルとして、

 

セルフトーク

姿勢の見直し

メンタルリハーサル

 

私がやはりいいなと思ったのは、セルフトークの中の、心の錨をつくることです。

心の錨とは、船を固定する錨のように集中ゾーンに引き止めてくれる簡潔な言葉、言い回し、イメージです。いろいろありますが、自分を信じること、私は今日これを仕上げる、私ならできる、などを言葉にしてみるということです。ひとりでいるときは声にだしてみて、周りに人がいるときは、心の中でつぶやいてみる。

できないと思うことをより肯定的な言葉に置き換えてみる。(思考の置き換え)

自己肯定とは、自分に注意を向けることです。自分の能力やスキル、長所に注意を向けることで、それらの資質を肯定していることになり、資質は注目されることで伸びるようです。注意を向けると、それなりの見返りがえられることがわかり、いったんその見返りが得られると、人間はその行動を繰り返すようです。

誰かにほめてもらう、とは、私はこの人に注意を向けてもらえた、と思うことです。ほめてもらうとまでいかなくても、声をかけてもらったなどでも、とてもうれしくなることがあります。それが、自分自身であっても、見返りがあるとは、驚きです。

また、姿勢の見直し、の中に紹介されている、快適さに安住しないということもまさに、その通りだと思いました。

 

新しいことを学んだり、新しい環境に置かれると、緊張します。そして快適な環境にいる自分に戻りたくなります。

これを、環境ゾーンから飛び出すといいます。新しい人間関係、場所、本の内容もまださっぱりわからない。自分の経験したことのないところにあえて身を置くことは不快ではあります。しかし、この刺激が実は集中ゾーンに必要なようです。

新鮮な体験とアドレナリンの分泌は、緊張感と生きているという実感を生みます。

私が卒業研究をやろう、と決心してから、ずーっとじつはこの緊張感がありました。新しい仲間や、ゼミでの話し合い、東京までの往復などなど。

けれど、これが良かったですね。たえず緊張していたからこそ、集中力は増していきました。

 

第八の鍵  生活習慣から意識する

8つめの鍵は行動スキルになります。

生活習慣から意識するために

 

集中できる人の生活習慣

頼りになる友人

身のまわりの整理整頓

 

生活習慣は、睡眠、栄養、刺激物などへの対処を紹介しています。どれも、人それぞれの生活環境があるので、一般に良いといわれる環境を目指す程度でいいかなと思われます。

ここではリラックスするためにも様々な手法が紹介されていますが、私は、今年に始めたヨガやフィットネスがとてもいい気分転換となっています。

ここには単にからだを動かすだけでもストレスが発散されますが、呼吸を深くおこなうことと、ゆったりした気持ちで、マット一枚の上で、自宅でいつでもおこなうことが心の余裕をもたらしてくれました。

ものを考えるというと、脳の働きをメインに考えますが、私としては、からだが脳を支配しているのではないかと思うほど、汗をかくほどにヨガやフィットネスをおこなうと、なんともいえない心の解放感が得られます。そしていっそう、つぎの作業への意欲が沸いてきます。

また、頼りになる友人という鍵では、友人という括りにとらわれず、私は憧れる人、尊敬できる人があると、また、自分を奮い立たせる鍵となるような気がします。

指導してくださる先生、あるいはもう亡くなってしまっていても、その著作や、生きざまに共感できる人など、心の支えとなる人をもつこともモチベーションを保ち、ひいては自分を高めていける目標となります。

そして最後は、身の回りの整理整頓です。

これは、私がいつもなにかを作業を始める際に、おこなうことです。とにかく、目の前のちらかりを一旦片づけること。もちろん、やりだすときりがなくなるので、ある程度ここの部分を片づけようと、簡単な目安を立てておこないます。

 

また、簡単な作業的なことから取りかかり、徐々に面倒なところにもっていく。細々したささいなことをやっているうちに、すこしづつ頭が作業モードに入っていきます。

そのときにも、あらかじめここは今日絶対やっておこう、というところははずさないようにします。

このような作業的なことは、実際に深く考えなければいけない時間に入りやすくしてくれます。パソコンへの入力は、かな入力をおこなっているため、キーボードをリズミカルに叩くうちに、頭がクリアになってくるという利点があります。

 

私が集中ゾーンに入るために、どのようなことが効果的なのかを、経験的なものと、この本に書かれていた認知心理学手法と、生理心理学的なことから組み合わせて、一つのストーリーをつくることが面白そうですね。

 

ヨガや呼吸法を取り入れて、まずはリラックスする

机の周りや、筆記用具、ノート、本などが散らかったいたらすこしづつ整理する。

自分のやりたいこと、今日取り組みたいことを書き出してみる

など。いま思いついただけでも、いくつかありそうです。アドレナリンやドーパミンなどちょっとむずかい言葉を使ってストーリーをつくってみても楽しそうです。

 

アテンション・エコノミー

ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ハーバード・サイモンが1971年に「情報の豊さは注意の貧困を生みだす」という主張を唱えました。

大量の情報の意味を理解するための注意力が必要なのに、それが不足している。

本書では注意力を例えば貨幣のようなものだと考えみることが提案されている。

注意力には収益、これは上述のように、自分の長所に注意を向けるだけでも、見返りがあるとされるわけで、実際にその長所は伸びていくということならば、それを自分が選択した情報や人、ものに注意をしっかりと向けることで、収益が得られるということも理解できます。

集中ゾーンに留まるということは、自分がなし遂げたいことに注意を向け続けるということなんですね。

ただ、長い人生において注意が乱されることは多々あります。でもそれは、思いもよらない新鮮な気持ちをもたらしてくれるものでもあります。

自分の中で大切なこと、注意を向けるべきことと、そうでないことを見極めることが、まずは、集中力を高めるための第一歩かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学院という選択

今日、大学院に関して、とても参考になる本を紹介していただきました。(何冊かあったのですが、以下の本以外は貸し出し中でかりることができませんでした)

 

養老院より大学院 (講談社文庫)

養老院より大学院 (講談社文庫)

 

 すぐに図書館に寄って、借りてきました。

図書館で借りたのハードカバーでしたが、文庫もでてるんですね。いまここで知りました。

そして、さっき読み終えました。とっても読みやすく、時々、読みながら、爆笑。

卒業研究の仕上げ部分をやろうとして、ついつい、読みふけってしまいました。

時々、大学院生が徹夜がつづいたり、研究室で寝泊まりするということを聞いたことがあったのですが、本をよんで、納得しました。

私はまだ卒業ではないので、卒業研究を終えてもまだ在学ということになりますが、その次を考えると、大学院という選択肢もありかな、とはおもっています。

ただ、自分がなにを研究していきたいのか、が明確でないと、ただ大学院という雰囲気というか、なんとなく勉強を続けたいなー、だけでは、受験の段階でも、いわんや、運良く入学できても、挫折しますね。多分。

内館さんの学びたいと思った原点は、「大相撲における土俵の女人禁制」について、ひいては、「大相撲」をもっと深く知ること、理論的に学ぶことでした。そのパッションは、途中失いかけても、原動力となっています。

私にそれだけの研究したいことがあるのか。

いや、一杯あるんですけど。じつは。

ありすぎて、迷うくらい。

高校生のころから、なんか哲学的なことや、宗教的なことを考えることが好きで、本も読んでいました。大学も哲学科みたいなところにも行きたかったのですが、結局目先に走った選択をして、就職と結婚。

父が私が20歳のときに急死したことも影響して、とりあえず早く結婚して、子どもを産んで、子育てをさっさと終えてから、やりたいことをやろうとおもっていました。

もちろん、結婚、子育て、義父の介護と死去、実母の介護真っ最中、と、いろいろありますが、それとこれとは、まったく別の次元で私の学びがあります。なので、先行研究など、文献をよんでいると、それこそ、内館さんの著書にもありますが、

社会人が大学や大学院に入った後、もしも若返ったとするならば、それは若い学生に囲まれているからではない。社会人の日常生活では考えられないようなことを習うからである。社会人がついも身を置いている日常や現実の中では、とうに忘れていたことを教わるからである。

P109  第五章 「非日常」に若返る社会人

の様な心境、

つまり非日常に浸ることができるのです。これは、たとえば映画やドラマ(SFなど、それこそ非日常を扱ったものなど)お芝居やその他、人によって、その非日常感を得るものは違いますが、私は、非日常を学びの中で体験することに大きな喜びを感じます。なので、大きな図書館などで、たくさんの蔵書に囲まれていると、昔からの多くの知恵と英知が詰まっているその空間にとてもやすらぎと、喜びを感じるのです。

 

しかし、それはまさに人それぞれ。

一人一人が、なにが自分にとって非日常であり、そこに浸ることで、生きる活力を得ていくのかを見つけることが、この複雑な世の中を生き抜くことに必要だと思います。

 

また、著書の中にも激しく同意する部分。

 

だいたい、どう考えてみたところで、社会人が大学や大学院に行くのは「趣味の領域」である。

社会人になって再び学問をするということは、これはもう、よほどの例外を除いて「趣味」である。中高年の社会人学生がこれからの日本を、そして世界を背負うわけではないし、もとより誰もそんなことは期待していない。 P153 「第六章 得たもの失ったもの」

 まさに、卒業研究をやりながら、その頭の中の飽和状態を感じつつ、もうだめ、とおもっている自分を、外からみている自分がいて、なんて幸せな時間なんだろーと。つまり、「痛、気持ちいい」感じです。これは完全に、趣味の世界だろうなと。

生活が困窮していたら、こんなことしてられない。

子どもが小さいときには、勉強なんてできっこないのは当たり前です。

背負うものがない、責任がないとはなんと楽なことでしょう。

また、誰かと、競うこともしなくてもいいこと。もちろん、ライバルなどがいた方がいいかもしれません。でも、年齢を経ると、あまり競争心も沸かなくなります。つまり人のことはどーでもよくなってしまうんです。

若いときのように、人とたえず比較してしまうとか、ピリピリした感じもなくなってきました。疲れちゃうんですね。

そんなことにエネルギーを使うより、すこしでも、本読んだり、じっくり学問の中に浸って考えることに集中したい、と思えるような心境です。

 

 

たしかに、大学院は大変でしょう、大変だ、むずかしい、などなど、ありますが、もし、本当に続けることが困難なら、すっぱりやめることも選択できるわけです。

趣味ですからね。

というと、なんか無責任な感じがしますが、それくらい、気持ちをちょっと広げて受け止めることも大事かなと。悩んでしまっても、ふっと我に返って、あ、これは自分の趣味だし、と。

けれど、やはり始めるには無理は禁物です。まさに現在お金を貯めなくてはいけない、家族のことでやることがたくさん(子どもが小さい、親の病気や介護、夫(妻)の病気や、失業などなど)などの状況を押して、できるものでもないことは自明です。

ものごとには、「適した時期」があるとも思います。

人生というアップダウンを繰り返す中で、うまく波にのれるときに、ぱっと乗る。

いい波がこなかったら、じっと待つことも必要です。

待つことと、波にのること。この時期さえ大きくはずさなければ、あとはなんとかなるし、また、細くてもいいから、人とのコミュニケーションをつないでおくことでしょうか。

 

まだまだ、私はこれから卒業研究を締め切りに間に合うように仕上げ、単位もとっていかなければなりませんが、まさに趣味の世界であそんでいるともいえます。

こんなことに没頭できることに、ほんと,感謝です。

 

 

 

 

 

卒業研究の進み具合

11月1日の最終締め切りに向かって、おそらくゼミごとにステップがあるだろうと思いますが、私のゼミではとりあえず、10月1日がプチ締め切り(担当教員に提出)です。

普段の仕事で、「納期」にいつも追いまくられているため、この締め切りには異常なほど神経質になります。

つまり,毎日が締め切り日のような感覚に陥っています。そして、その完成形をつねに頭に思い描き、締め切り日あるいは納期から逆算して、ここまではここまで、やっておこうということを考えます。

最後の追い込みはおそらくパニックになる私にとっては、すこしでも先に進めておいて、ちょっと余裕かなぐらいまで最初を締めていきます。それが今日の夕方であろうが,一週間後であろうが、一か月後であろうが、同じです。

私にとって、論文を書くということは初めての体験です。なにもかもが新しく、とにかくいつも最初から壁にぶつかりっばなし。

今回も、分析ソフトを使って数字は出たものの、それをどのように処理していくか。

ここで、いままでとても苦労してみつけてきた、あるいはその研究意義などが、必要になってくると、いまさらながら思います。

つまり、この尺度をつくるにあたってどんなことを考えてきたのか、そもそも、なぜこの研究をしようと思ったのか、なにが知りたいのか、その問題意識が深くないと、最後の考察や、そもそもの問題の部分がかけないということです。

たえず、原点にもどり、人から与えられた問題意識ではなく、あくまで自分が解決したいと思った問題について、様々な手法を経ながら、その経緯をふくめ、記述していくことが求められるように思います。

私は、人になかなか尋ねることができず、自分でとにかくぎりぎりまで調べようとしてしまいます。

そうすると、情報があふれ返って、頭の中が飽和状態に。

 

ここで、以前読んだ本、「勉強の哲学」の言葉が頭をよぎります。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 ここで、著者は、教員の存在を、勉強のきりのなさに対する「有限化」してくれるものとして述べています。私自身は、今回のこの体験を通じて、やはり担当教員の存在はその情報の「有限化」としての存在であり、それ以上でも、それ以下でもないという印象を強く受けました。

それは、教員は学生を指導する立場であるわけですが、学生にとってはあくまで勉強するのは自分であり、ましてや教員に自分の研究テーマのすべてを話したり、わかってもらうことはできません。(自分でも、わかっていないのに、できるはずはないです)

私自身、この勉強が始まってから、そういうことは覚悟していましたが、やはり、大半は自分の試行錯誤です。

勉強というのは、自分で文献を読んで考察するのが本体であり、教師の話しは補助的なものです。

教師はまずは「このくらいでいい」という勉強の有限化をしてくれる存在である。                 (p182)  

とあります。

また、その教員が示した選択肢なども、一度は検討するものの、どうしてもそれが納得できなければ、(たくさん調べても)それは違うと判断します。それも自分ですることです。

このような作業は、やはり人によっては、教員が厳しいとか、冷たいとか、あるいは無視されたんじゃないかとか、感情的になることもあるかもしれません。

が、勉強が楽しいのは、それが自分で獲得していくものだから、だと思います。

もちろん、自分でなにもかもができるはずはなく、そこには多くの人の協力や支えがあって成り立つわけですが、自分の知りたいこと、研究したいことは、他人にわかってもらえる形にするまでは、ずーっと自分で考えつづけないといけない。

今回の放送大学もそうですが、通信制であることにかぎらず、たとえば独学してなにかを研究している人たちもたくさんいると思います。

それぞれの学びの形は違いますが、共通すること、それは自分が知りたいということについてどのようにアプローチし、それを自分で調べ、検証し、その時点での結果を導いていけるかだと思います。

ここまで書いて、なんか、教員という存在とはどういうものなのか、と考えました。

それは、やはり人として、その方がどのように生きてきたか、どのような考えをもって著作や論文を書いてみえたのか、ということを知ることが大切かなと。

つまり、その分野のエキスパートとして、どのように問題意識をもっていままで問題に取り組んでみえたのかを、自分なりに調べ、そしてそれを参考になる部分や、共感できる部分は取り入れていくことかなと。

あくまで主軸は「自分」です。

これらの体験は卒業研究に挑戦することで得られたものです。もちろん、まだ終わっていません。これから毎日が締め切りとしてこつこつ、最後まで走り続けていきます。