放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

学び続けることについて Part 1.

今朝の朝日新聞、「経済気象台」コラムには、何度でも学べる社会に、というタイトルの内容がのっていました。

その内容のなかで、

国の調査をみても、民間企業における一人当たりの教育訓練費は1990年代以降漸減傾向にある。働き方が多様になり、転職で人材の流動性が高まっている折、一人ひとりが就職後も学びつづけ、専門性やスキルを向上させることが非常に重要になってきている。(L.36-47)

とありました。

まだまだ、大企業に就職したり、公務員になって、人生安泰である、という考え方も根強くあるかと思いますが、情報通信の発達や、多様な生き方というものを選択することができるようになった分、若者が、転職や、会社をやめるという選択肢もありかな、という世の中になってきたことで、企業も人を育てるという部分に関して、お金をつかうことが減ってきたのかもしれません。

多様な生き方とは、どういう生き方か。

たとえば、学校にいる間はとりあえず、短期の目標があります。

卒業するとか、あるいはもっと上級の学校にいくための準備とか、スポーツで大会に出場するとか・・・

でも、働くことが中心になった生活に突入すると、それはそれで、たいへんです。

一生懸命就活し、やっと入った会社で、とにかく慣れるためにはしばらくがんばらないといけない、とか、正社員とかじゃなくても、パートでも、アルバイトでも、とにかく働くことは、身も心もつかれます。

そんな状態で、がんばって、なんとか慣れてきた、というところで、時間に余裕ができ、いまの生活をあらためて見直してみたとき、なんとなく、このままでいいのかなと。

多くの人は、やはり、仕事を中心にしながら、休みにはすきなことをすればいい、と思うのはごく当たり前のことです。

 

学ぶことは、特別なことじゃない・・・働くことと学ぶこと

 私は、短大を卒業し、就職して、務めている間に、たまたま知り合ったいまの夫と結婚し、一年ほど、仕事と結婚生活を両立し、退職しました。

私は、働く職種に関しては、とても無頓着で、なおかつ、好奇心旺盛なので、まずは、結婚して、お腹に子どもを身ごもったときに、1カ月(夏休みくらいのあいだ) ほど、アパートの直ぐ近くにあったラブホテルの清掃係(ベットメイクとか、お風呂を洗うとか)として、働きました。

そこで一緒に働いていた方々のお話など聞きながら、人生いろいろだなーと。自分の知らない世界がそこにもありました。部屋を効率よく片づけることも(お風呂はつかったバスタオルで拭いちゃうとか、いろいろ) 教わりました。

そして、二人の子どもの出産と、彼女らが、保育園に入園のころ、今度は早朝の新聞配達をはじめました。帰りの遅い夫に子育てを期待するのは、きっぱりあきらめていたんですが、すくなくとも、このころ私自身は、小金をため、そろそろ、「勉強」をはじめようかなと、思っていました。ちょうど、そのとき、近所の朝日新聞の販売店で、配達員の募集がありました。

昼間は家事や子どものお迎えもあり、通常の昼間働くパートは難しいと思ったのと、ほぼ深夜に出勤するので、いくら帰りが遅い夫でも、深夜には帰宅して就寝していたので、(お酒を飲んで、かえってこないことも多々ありましたが) 子どもたちだけになることも少ないと、思ったことと、 新聞が大好きで、毎朝、新聞配達のみなさんはどうやって配っているんだろう、という興味もあったのです。

のちのち、そのたいへんさが身にしみるのですが、結局17年ほどつづけることができました。

そして、お金を貯めて、再開したい思った勉強は、英語でした。

再開、としたのは、私は短大で英語科に所属していました。もっとも、英語が好きだったわけではないと思います。英語は、たとえば、私が日本語を母国語として話すことができるように、それをつかって、なにかをする、という手段にすぎないわけですから、英語がつかえる、なにか、を探さなくてはなりませんでした。

といっても、そのときは英語の勉強を一から、つまり文法からはじめるために、週一でYWCAに通いました。

もちろん、新聞配達で稼いだお金で、といいたいところですが、べつにお金に色がついているわけでなく、夫の収入分は、そのころから、もうちょこちょこ自分のためにつかうということにはまったく抵抗がありませんでした。

ごく普通に、私は家庭のなかに自分の勉強をとりいれていきましたが、それが収入に結びつくことはありませんでした。ただ、外へでて、学校に週一でも行くことで、またいろんな出会いがありました。

けれど、ある意味それは自己満足のようなものだったかもしれません。

英検をうけたり、あるいは、もうちょっと進んで、テクニカルライティングというものをまなび、工業英検も受験しました。英語を学べるサークルのようなものに参加するため大阪までいったこともありました。

その後、新聞の求人欄に、特許明細書の要約を翻訳する仕事が掲載され、応募してトライアルをうけると、合格。(自宅で作業して、ネットを介して納品)

だいたい、当時は特許明細書などみたこともなく、とりあえず、PCに専用のソフトをインストールし、その会社からの案件をいただいて、わけのわからない、特許用語と格闘しながら、ひたすら、特許の要約の翻訳を(和訳)をしました。これが、はじめての英語を通じての、収入に結びついたものです。

働くことが、学ぶことと一体になるのは、本人の考え一つかもしれません。ただ、経験値を積むことは、その学びという営みの一つにすぎないかもしれません。

 

学ぶことは、結果を期待しつつ、模索し、もがくことかも

その間も、ずっともやもやしていました。私のしたいことはなんだろう。

新聞配達と、特許の要約の和訳、そしてまた、お金欲しさに、今度は近所の精肉屋さんにパートで働きに出るという生活。

自分でもあきれるくらい、くるくるとよく働きましたが、勉強していたい、学びたいという「思い」はずっとありました。

別に生活が苦しいというわけではなかったのですが (夫はまじめに働いてくれています) 、学びたいという思いと、なにを学んでいいのかわからないという思い。で、結局そのもやもや感から逃げるために仕事を増やしていたのではないかと、いま振り返って思うわけです。

 

上述の、コラムの執筆者は第一線で活躍している経済人、学者とありますので、まさに学びが、ご自身のスキルや、仕事に結びつくものであったわけですが、そのような学びだけではないと思います。

 

つまり、現実に就いている仕事とは関係ないことや、自分ではなかなか認識できないこと、なにを学んだらいいんだろう、ということがわからない人たちがたくさんいるのではないかなーと。

結果をだす、ということが、最終目標にはならない、と思います。

いまの歩んでいる、この毎日が、そしてそのなかで、一歩でも二歩でも、自分が学びたいことはなんだろうと、あきらめず、求め続けること。

10年単位で物事を考えることと、今日一日、明日までのことしか考えられないこととは、違うことではないと思います。

今日一日は、10年の重さがあり、また、10年は今日一日の重さでもあります。

心理学を学びながら、つくづく、人間という生き物、その思考や、存在が深いものかと感じるし、まだ、わからないことが次から次へとあらわれてきます。

 

つづきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新しい学期がはじまりました。

すでに4月も半ば。

今期は、私は卒業研究があるため、面接授業は申請せず、放送授業は4つの科目を選択しました。

錯覚の科学

心理臨床の基礎

心理臨床と身体の病

交通心理学

です。

すでに、各科目第二週までは視聴しました。(交通心理学は今日視聴予定)

タブレットで視聴するので、いつでも自分のペースでみること、聞くことができるのでそういう面は通信の強みですね。

最近、ちょこちょこ、新しく通信制の大学ができたり、普通の大学でも、講義をタブレットで視聴できるなどの試みがなされているようです。

ただ、屋外だと、ワイファイ環境など、セキュリティが心配だったり、動画だと重くなったりとまだ、屋外環境は難しいこともあるかもしれませんが、自宅だったらほんとに気軽にできます。

心理臨床は、じつは心理概論以外で科目として学ぶのははじめてです。

心理学というと、この放送大学で学ぶときに、おもに心理臨床(カウンセリングとか、フロイトとか、ユングとか・・・)のイメージが強くて、その後、社会心理学や、認知心理学を学んでいくことで、心理学の私がいだいていた思いが、いい意味で裏切られていきました。

今回、心理臨床の基礎と、心理臨床と身体の病、の二つの科目を通して、どんなことを学べるのか、たのしみです。

認定心理士の資格も視野に入れているので、さまざまな分野の心理学をまずは広く浅く学ぶことが目標です。

また、卒業研究のゼミもはじまります。

実は、もう、そっちのことで、ずーっと頭のなかは一杯です。

今度の第一回のゼミで自分のやりたい研究についての簡単な説明をおこなうんですが、そのときの資料を作成しないといけません。今日もこれから図書館にいって、いくつかの文献をあたりつつ、作成するつもりです。

当初の内容とかなり異なることになるので、そのへんをきちんと説明しつつ、今回なにを明らかにしたいのか、を発表します。

うーん。

ある程度絞り込んだんですが、それを、どんな統計方法をつかっておこなうのか。

尺度もきめないと。

今日、なんとかまとめたいです。わからなことは、調べた上で、ゼミで質問するなり、またつっこまれたときに、気づくことがあると思うので、ま、なんとかなるということでやってきます。

自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学  ティモシー・ウィルソン著

やっと読了した本 「自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学」。
 
これから、卒業研究に向かって文献を参照することが必須になってきますが、まだ全然なれていません。
 
ただ、本を読んで、自分の感想を述べる時にそれがどれを参照にしているのかをきちんと紐づけすることが必要なので、今回は練習のつもりです。
 
ちょっと自分の考えも入っていますが、簡単にまとめることができない、奥深い本ですし、まだ無意識について様々な知見もたくさんあることでしょう。私はやっと入り口から覗いているような感じですが、感想とともに、すこしでも自分なりのわかったことをまとめてみました。
 
1. 自分を知るということの難しさ
 1-1  私自身のささやかなこだわり
私は、小さい頃から、祖母に連れられ、お寺などにお参りに連れて行ってもらいました。
 
そこでは、主に僧侶の方のお話しや、おかじと称して、数珠で背中や頭をごりごりやってもらいながら、お経を唱えて、お参りしていたものです。
 
さまざまなお地蔵さんに手を合わせたり、いろんな教えをなんとなく聞いていましたが、かといって、それほど信仰にのめり込むことなく、ただ、なにか自分の両親や祖母や祖父たちよりももっと大きな存在は感じていたように思います。なにかに守られている、という感覚は、それはそれで小さい頃には安心感が与えられていたのでしょう。
 
やがて、中学生、高校生になっていったとき、素朴なそれらの信仰に疑問をもつようになります。
 
だいたい、なぜ、いくつもの宗教があって、みんなそれぞればらばらなことをいうのだろう。
人が幸せになる方法とか、死んだら行く場所が、宗教によってちがうなんておかしいじゃないか。
 
人間の作り上げたものに、なぜ人は救いを求め、また、様々な問題に巻き込まれ、苦しむのか。
 
そんな小難しいことを考えて、一人で悩んでもそれは答えがでるわけでもなく、もやもやとしたまま、時は経っていきました。
 
1-2  選択の動機と無意識
今回、私は放送大学で心理学を学びたいと思ったのは、その選択について決定的な動機があったわけではありません。
 
本当に、これからの私の人生の後半戦、どうやって生きていこうか、と考えたとき、大好きな本をたくさん読む理由ができるから、とか、ほんとうになんとなく、です。
 
そのなかの一つに、自分というものをもっと知りたい、ということもありました。
が、それはあくまで、こじつけのようなものだと思っていました。
 
しかし、今回、社会心理学のテキスト、第9章で取り上げられた「自分を知り、自分を変える ティモシー・ウィルソン著」は、私がかねてからとても興味をもっていた、「無意識」を取り上げていたことなど、まさに、ページ一枚ずつめくるのが惜しいぐらい、じっくりと読み、そして多分放送大学の心理学を学ぶ機会がなければ、このような本にもめぐり合うことができなかった、と思うと、私の決断はまちがっていなかった、と心から思いました。
 
ここで、私はふと、自分が、(まさに意識していない状態)、なにかを選択する場合、そこに、潜在的な意識、つまり無意識が働いているとしたら、この選択は、私の無意識がそうさせたのでしょうか。
 
 
ただ、この本にもあるように、
 
適応的無意識とは(ひょっとしたら、熟練した心理療法家の手助けを借りて)良い自伝の作者となることによって推論されなければならないものであって、抑圧を取り除いたり、意識下に煮立つ大鍋を覗きみることから推論されるものではない。 (P286) *1
 
とあるように、"無意識"を覗き見た結果というわけではないようです。
 
この本自体は、今回私が学んだ社会心理学の教科書に書かれているように、
 
本書は2つの側面を持っている。一つは、一般向けに自己啓発書としての側面、そしてもう一つは社会心理学における最新知見を知らせる平易な学術書としての側面である。 P138 *2
 
であり、読みやすいのですが、それは私がここまで学んだ心理学の基礎的な知識が役に立っていることを実感します。
 
すなわち、それぞれの仮説は、実験と、それらのデータの上で一つ一つ検証され、積み上げられているものであり、その経過が大切であり、安易に結論に飛びついたり、あるいは、そのデータの変数の相関も大切な要素となってきます。それらのことは、心理学実験や、心理学の基礎的な学びの中で、これらの本を読むことに役立っています。
 
このような背景をふまえ、私の意思決定への、自分勝手で安易な理由づけ、ここでは、自分の生い立ちから考えましたが、そんな簡単なものではないようです。
 
私がこだわってきたことと、今の自分の有り様が、果たして関連しているのかどうか。
 
やはり、自分を知ることは大変難しいようです。
 

2.無意識とは

本の中では、無意識は、

 

無意識はまた、それ自身の心や意志をもつ、単一の実体でもない。むしろ人間がもつ、時とともに進化してきた、意識の外で働く一連のモジュールなのである。*3

 

とあります。

 

そして、この本の中では適応的無意識という言葉がキーワードとなっています。

 

適応的無意識の現代的な考え方では、判断、感情、動機などの心の興味深い働きの多くが抑圧のためではなく、効率性という理由から、意識の外で起こる、心は低水準の処理(たとえば知覚過程)が意識に到達しないようになっているだけではなく、多くの高次の心理過程や状態もアクセスできないように設計されているのである。*4

 

なにか、とても機械的で、システマティックな感じです。

3.フロイトの無意識

無意識というと、フロイトを思い浮かべてしまいますが、フロイトのいう無意識は、ここでは単に注意を向けるだけで簡単に意識化できるものと、さらにもっと重要なものとして、

 

心理的苦痛の源となっているために意識の外に追いやられている、原初的な幼児期の思考の巨大な貯蔵庫があること *5

 

とあり、このフロイトの無意識のとらえ方はあまりに限定されていた、と述べられています。

 

適応的無意識がシステマティックな感じがしたのは、フロイトの無意識のほうがより知られていて、なんかどろどろしたものであると印象づけられていた (少なくとも私にとっては) かもしれません。

 

 

 

 

4.適応的無意識とは

ここで、適応的無意識について、もう一つ、

 

 

「適応的無意識」という用語は、非意識的な思考が進化による適応であることを伝えようと意図したものである。環境を即座にそして非意識的に評価し、明確化し、解釈し、行動を開始させるという能力は生存に非常に有利なため、進化的選択がなされたのである。*6

 

とあります。

 

ここでおもしろいのは、教科書にもあったのですが、

無意識的過程が進化的適応の産物である

*7

 

ということをつたえていることです。

 

 

心理学もいろんな分野がありますが、身体的な進化とともに心理的特性も進化的適応の産物という、進化心理学もまたおもしろいですし、さらにこれから、心も進化しつづけるということが考えられると思います。

 

 

 

5.自分をコントロールするということ

たいてい、私たちは自分のことをある程度コントロールできているような気分になっているけれど、実はそうではないということを、本を読みながら、だんだんとわかってきます。

 

ちょっとしたハプニングでは、すぐ気が動転したり、もっともいやだな、と思うことは、自動的になにかを判断していると、ふと自覚してしまうことです(とくに偏見など) 。

 

ここでも、

 

自動思考のもう一つの例は、他の人びとをカテゴリー化し、ステレオタイプ視する傾向である。*8

 

とありますが、セクハラ問題や、性的マイノリティー問題、その他それこそ性別や、職業など様々なことから、自動的に他の人をカテゴリー化している自分がいます。

 

難しいのは、自覚することができればいいのですが、たとえば習慣的なことは「適応的無意識」によるものであり、直接アクセスできない、となっています。

 

なので、たとえば、表面的にはそのような偏見を一切みせない人が、実はかなりの差別的なものの見方をしているということもあり、本人も自覚していない場合があります。

 

これは、意識的自己と無意識的自己とが調和していない例となるようですが、ほとんど研究がないようです。

 

 

 

 

 

6.自分を知ることと、自己洞察

自分自身の性格をわりと正確に当ててみせる、なんてことはできるものでしょうか。

 

案外思い込んでいることはありそうです。

 

適応的無意識の観点からいうと、

 

しかし、もっと簡単明瞭な説明がある。人びとの習慣的な傾性、特性、気質の多くは、適応的無意識によるものであって、直接アクセスできないのだ。

結果的に人は、両親、文化、そして自分がこうありたいと思う考えなどの他の源泉から、自分の性格に関する理論を作り上げざるを得ない。*9

 

だから、自分が思っている自分の性格と、外からみる性格とは異なることはごくあることだろうと。

 

でも、私たちは、自分がどんな性格なんだろうか、ということは自分を知りたい主要なことの一つです。

 

自分を知ることの手段として、いま、いろいろ方法があります。

本文では、内観と自己洞察について述べられていますが、私は、この二つはほぼ同義のことかなあ、と解釈し、

 

自己洞察については、

 

目を外に、自分の行動と他の人びとがそれにどう反応するかに向けることによって、そして良い物語を発見することによって、私達の隠された心の性質を推し量るのが良いことが多い。

私達は本来、みずからの行動と感情から意味ある効果的な物語を引き出す、人生の伝記作家でなければならない。良い自己物語の著者になる最良の方法は、隠された感情と動機を発見しようと無益な内観にひたることでは必ずしもない。*10

 

と述べられており、内観については、

 

内観はそれ自体、ストーリーを作る作業でもある。伝記にかかわる多くの事実は、直接観察するというよりも、推測しなければならない。作り上げるという作業は、動機に対する即席の内観から長期にわたる心理療法にいたるまで、すべての水準で生じる。内観は、懐中電灯や考古学ではなく、限られた情報にもとづいて、自伝を書くこととみなすのが最もよい*11

 

と述べられています。

 

内観は自分の本当になにかを探る、というより、物語をつくるということである、というのはとてもおもしろいです。

 

 

 

7.より、自分を知る方法とよりよい自分を目指す

適応的無意識が、ほぼ、のぞくことができないものであり、自分の意識の力ではどうすることもできないものなのか、この本のなかではさまざまな試みがなされてきました。

 

現代社会では、情報があふれ、自分をみつめるというより、外部情報に翻弄され、たえず、外の情報をチェックするような日常生活に私たちは生きています。

 

けれど、マインドフルネスという、一種の自己をみつめる、もっと自分の心に向き合うことが大切なのではないか、という考え、方法が広がっているように思います。

 

では、ただ、やみくもに、自分の内観を探ることができるのかどうか、この本でも述べられているように、それはおそらく、限界があるのではないかということが推論できます。

 

では、どうするのがいいのか。

 

私が読み取ったものは、

 

自己の内観と、外部情報の利用、そして行動を組み合わせることです。

 

自己の内観は、ただ、頭のなかで反芻したり、考えたりするだけでなく、それを筆記することです。これは、現代ならさまざまなPC上のエディタでもいいし、スマートフォンなら、アプリでもいい。

これは、本書にも引用されており、いま、私が読んでいる 「オープンニングアップ  秘密の告白と心身の健康  JWペネベーカー著」にも書かれていることですが、筆記することのすばらしい、心身に与える影響について述べられています。(これも、社会心理学の授業から知ったもので、感動しながら読んでいます)

 

外部情報とは、心理科学を学ぶことや、他者の目を通して自分を知ること(心理療法など)。

 

もちろん、ここでもウィルソンは、他者の目がかならずしも、正しいとは限らないし、たとえば、それを知ったとき、傷つくこともあるかもしれないし、知らない方がよかったと思うこともあるかもしれません。

 

ただ、

 

他の人びとが自分とは非常に異なる見方をしているときには、(たとえば、他の人からみて、その人にはあまりにも不適切だと思う職業などを選択しようとするとき) とりわけ、そういえる。そういうときには、すくなくとも他の人びとの見方を考慮にいれるべきであろう。自分の能力を他の人びとの見方よりも少しだけ肯定的にみることにはほとんど害はないけれども、ギャップが大きくなれば問題が生じる。*12

 

としています。

 

そして、最後には、じぶんの行動に焦点を当てます。

 

自分のすることを注意深く観察することで、私たちは自分自身について多くのことを学ぶことができる。加えて、もし私たちが自分の適応的無意識のどこかを変えたいとたら、そうなりたい人のように意識的に振る舞ってみるのが良いきっかけになる。*13

とあります。

 

ここに、意識的に振る舞うとありますが、適応的無意識が、意識的な行動で変わるかもしれない、というのはとても希望がもてることです。

 

ただ、どんなモデルをとりいれたらいいのでしょうか。

 

自分が理想とするモデルを見つけることは、簡単なようで、難しく思います。上でも述べられているように、あまりに自分が理想としている現実と、自分自身の現状とがギャップが大きいことだと、それはかないそうにありません。

 

ここでは、まず、自分の行動を観察することが大切になってきますが、本文ではそこから派生するさまざまな問題も述べられています。

 

しかし、話は込み入っている。つまり、自分の行動から感情を推論するという自己知覚過程に、心のどちらの部分が関わっているのかという難問がある。・・・適応的無意識もまた、意識に気づかれないうちに行動から推論しているかもしれないことも事実である。実際、適応的無意識の主要な役割の一つは、自分自身と社会的世界の性質を推論することである。*14

 

 

とても、こうすれば、こうなる、というものではないことが、さまざまな実験などから述べられていますが、希望もあります。

 

この行動について、さまざまな難しさはあるけれど、

 

 

アリストテレスは、「まず(徳を)おこなうことによってそれが我がものとなる。・・・成すことによって正しい人となり、節制によって節制ある人となり、勇敢な行為によって勇敢な人となる」と示唆した。ウィリアムジェームズも同じように助言している。「あなたの身につけたいと願う習慣に向けて、不退転の決意で、経験しうる限りの情動の駆り立てる力を用いて、それを行為する最初の機会をとらえなさい。」

言い換えれば、非意識的な傾向を変化させる第一歩は、行動を変えることである。非意識的なレベルで偏見をもっているのではないかと心配な人は、可能な限りいつも、偏見のない方法で行動を尽くすことができるだろう。そうすることで、二つの方法で、自動的レベルの変化を導き得る。

第一に、先に述べた自己知覚過程にしたがって、行動から非意識的に、自分は偏見のない人であると推論する機会が得られる。

すなわちそれは、態度と感情を推論するための新しい「データ」を、適応的無意識に提供する。

第二に、ウィリアムジェームズが述べているように、ある行動をすればするほど、それはより習慣的で自動的になり、努力と意識的注意を必要としなくなる。社会心理学の変わらぬ教えの一つは、態度や感情の変化にしばしば行動変化が先行することである。このように、自分についての意識的概念に一致するように行動を変えることは、適応的無意識に変化をもたらすよい方法である。*15

 

 

とあります。

 

先に書いたように、自分が知らず知らず、さまざまな偏見をもって、人をみていたことをまずは、気づくことが大切であり、それは外部からの情報を材料にすることができます。それについて、どのような見方を自分はもちたいか、なかには、その偏見は自分にとって正しいことだと判断することもあるでしょう。それは、それでその時点においては、いいのかもしれません。

 

ただ、その判断が、自分の態度や行動に影響を与えることであり、現代という時代や、環境にさらされたとき、(たとえば、家族や友人が自分が正しいと思っていたことと外れるときなど)書き換える必要に迫られることがあるかもしれません。

 

それを知っているのと、知らないのでは大きな差があるように思います。

 

よりよい自分とはなにか。その判断はやはり、難しいのですが、自分の幸福感や、良い気分となるものとは、やはり自分の意識レベルと無意識レベルがなるべく一致していることが、精神的にも肉体的にも健全となりうることを本文でも述べています。

 

この、内観をすることと、外部情報をとりいれ、行動(実践)すること。

 

人の意識、無意識については、まさに、さまざまな研究や、意見があります。私は、この本を通じて、まさにその入り口をかいま見ただけですが、わくわくするような興奮を覚えました。

 

まだまだ、この研究について、また参考文献などを読んでいきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 
 

*1:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学

*2:社会心理学 2014年 

*3:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P9

*4:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P11

*5:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P8

*6:こ自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 p32

*7:社会心理学  P141

*8:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P72

*9:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P90

*10:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学P21

*11:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学  P215

*12:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P261

*13:こ自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P265

*14:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P274

*15:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P276

ことばと体について

ピョンチャンオリンピック、真っ最中です。

人前で緊張することのさまざまな知見を宮本先生の講演会で知ったばかりで、今回のオリンピックをみるときにも、選手たち、とくに注目されている選手たちのパフォーマンスに、それらのことが影響するのかを、自然と意識しながらみていました。

 

スポーツ選手が、あるいは、ごく普通の私たちでさえ、緊張状態においてうまく自分をコントロールできないことは多々あります。

 

どうしたらそのような状態を克服、あるいは、それを糧に、次につなげることができるのか。

 

今回、たまたま新聞でとても興味深い記事を読みました。

 

スピードスケート女子 小平奈緒選手の記事

小平奈緒選手についての私自身の知っていることは、ただ単に今回たいへん有望視されている選手であるということだけですが、彼女をさまざまな媒体でみていると、とてもクールな感じがしました。感情をあまり表情にださない感じかな、と。

 

今回、スピードスケート女子1000メートルで銀メダルを獲得しました。

私が購読している、朝日新聞(2月15日付け)の記事には、

小平伸ばした 魔法の言葉

と見出しがあり、記事の中では、

たとえば、「腕を「イチ、ニ」ではなく「イッテンゴ、ニ」で振れ、との意味だ。「テンポを遅らせ、ためをつくることで伸びる瞬間がある」と小平は明かす。ほかにも「チェンジレバー」や「スイッチ」・・・。2人のあいだに存在する「魔法の言葉」」速くなるための技術を言葉に置き換え、高めてきた。

この二人というのは、小平選手のコーチ、結城匡啓コーチです。

もちろん、このことだけではなくても、言葉というのがなにかここで大きな役割を果たしているようです。

とくに、

速くなるための技術を言葉に置き換え、高めてきた

というところが興味深いです。

 

スピードスケートというのが、どんな競技か詳しいことはわかりませんが、少なくともあの薄いエッジに自分の体を預け、ものすごいスピードで疾走するわけで、わずかなことで、(環境や、心のあり方)記録が伸びる、あるいは伸びないということになるでしょうね。

 

言葉で伝えることができるもの

よく、あうんの呼吸といういい方があります。

たとえば、ある技術を伝えるときに、マニュアルもなく、ただ、先達の見よう見まねで覚えるというやり方

ここでは、言葉にできないものがある、というニュアンスです。

 

ちょっと話が飛んでしまいますが・・・。

ただ、先日ラジオ (道上洋三の健康道場より) で聴いていたんですが、能という伝統芸能があります。

ゲストとして、能楽師の安田登さんがお話されていました(本が紹介されていました)。

 

能  650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

能 650年続いた仕掛けとは (新潮新書)

 

 

とても興味深いお話だったのですが、このなかで、世阿弥が残した「風姿家伝」について、能がその当時から千年残すことを目指して、書かれたものであるということ、これがどれだけ当時の状況に照らし合わせても画期的だったか、を語ってみえました。

この本はまだ読んだことがないのですが、読んでみたいです。

 

能を千年先を見据えて、残すという使命感をもって書かれた風姿家伝。私は読んだことはないのですが、初心忘るべからず、秘すれば花など聞いたことがあります。

 

 

 羽生結弦選手の復活のかぎ

そして今度は、フィギュアの羽生結弦選手の言葉です。

羽生選手はけがで、このピョンチャンオリンピックに出場するまで、公式には一切姿をみせず、大会にも出場していませんでした。そんななか、今回(じつは今日、これから羽生選手のフリーがはじまりますが(2018年2月17日)、昨日のショートプログラムでは、すばらしい滑りをみせてくれました。

 

一体、どうしてそのようなことができるのでしょうか

これは、今日の朝日新聞(2月17日付け)の記事です。

羽生の言葉を借りれば、「最大公約数」を「連想ゲーム」のように、少額2年のころからつけ始めた「研究ノート」に記録する。つまり、成功や失敗をした時に身体の各部分がどう動いていたかを整理し、共通点を書き出すのだ。そして、ジャンプ成功のために「絶対に見つけなきゃいけないポイント」を絞っていく。だから羽生は自分の精神状態や体の動きを、言葉で的確に言い表せる。とくにミスしたと時ほど話す。「(自分の言葉が書かれた)記事を読み返すと、自分の考えを思い返せる。それは財産であり、研究材料。だからしゃべる」

と書かれていました。

研究ノートというものを使って、たえず自分の状態を客観視すること。そしてこのなかで、

だから羽生は自分の精神状態や体の動きを、言葉で的確に言い表せる。

という箇所はとても印象的です。

また、

「(自分の言葉が書かれた)記事を読み返すと、自分の考えを思い返せる。それは財産であり、研究材料。だからしゃべる」

多くのスポーツ選手や、インタビューをうける人は、こんな風に新聞記者や、レポーターに話したことを自分の研究材料として、分析するのでしょうか。

あらゆることが、自分の糧となる、研究対象となるということですね。

 

おそらく、もう一人の自分がいて、その「彼」が冷静に観察する状態を、研究ノートを通してつくってきたのではないかなかと。

ここにも、言葉のもつ力が含まれているような気がします。

スポーツ選手でけがをして、現場にもどれない方々はいったいどれくらいいるのかわかりません。(私は調べたことがないので)

だから、今回の羽生選手の復活には、一般の人びとだけでなく、実際にいま、復帰をかけてがんばっているプロスポーツ選手や、その他のさまざまな分野でのプロたちが注目しているのではないでしょうか。

 

体を動かすことで、心を整える

ただ、今日の新聞にはこんな投稿もありました。

やはり、今日付け(2月17日)の朝日新聞の「ひととき」から。

お子さんが難聴と知的障害があることがわかり、生活が一変し、精神的に追い詰められたという女性の投稿です。

しかし、それを心配した夫に、スポーツジムに行くことを勧められ、

はじめは苦痛だったが、次第に友達もでき、雰囲気にも慣れた

と書かれており、そのあと

不思議だったが、体を動かすことで、心も元気になることを実感した。

と、書かれています。

この後、そのお子さんも成長し、本来の自分を取り戻した投稿者は、いまは、

笑顔が増え、新しいことにもチャレンジできるようになった

とあります。

お子さんが予期せぬ事態となり、ほんとうにそのときの心の状態(精神状態)は、さぞかし混乱状態だったでしょう。

そんなときは、脳の状態は、おそらく、あらゆる不安、恐怖、これからどうなっていくのか、あっと言う間にそのようなもので飽和状態となったのではないでしょうか。

ここでは、たとえば、日記をつけるとか、記録することもおそらく、効果はあるかと思いますが、このかたの場合は、「なにも考えないこと」という状態を作り出すということが必要だったのかと思います。

言葉で現在の自分の状態やまわりの様子を記録し客観視することは、自分の精神状態をコントロールするには効果がありそうですが、その場合によって、どういうことをすることがいいのかがちょっと、異なるみたいです。

 

自分の意識できないところがあるということ

放送大学の単位認定試験がおわり、結果も出て、とりあえず、全部合格(やった!) しました。

で、ここのところ、どうやって、勉強をしていくかをあらためて模索しています。

今回勉強した、社会心理学教育心理学、社会調査、学習支援心理学、など、どれもおもしろくて、奥深くて(そりゃそう!!)  やっと、これから参考文献を読もうと思っています。

まずは、ティモシー・ウィルソン著 「自分を知り、自分を変える」です。

 

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

 

 まだ、読んでいないので、これからですが、授業でちょこっとやったので、とってもわくわくしています。

無意識という言葉には、たとえばフロイトユングといった名前を思い浮かべてしまいます。

今日、オリンピックに出場した選手たち、とくに注目を浴びる選手たちの言葉や、いかに自分をコントロールするかを記事になっていたので、ここでも自分の無意識が関わっているんじゃないかなと、勝手に推測しています。

しかし、言葉というのは、いったいどんな影響を私たちに与えるのか。

つまり、言葉の大切さや、それを記録したりすることで、それらが自分をコントロールし、自分の思いを遂げる重要なツールとなりうるとすると、それを知っているか、知っていないかでは大きく違いますね。

 

(羽生選手と宇野選手が、それぞれ、金メダル、銀メダルを獲得しました! おめでとうございます!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会心理学の講演会にいってきました。

今日、岐阜学習センターでの宮本先生の講演会、

人前 での社会心理学というタイトルで、行われました。

宮本先生については、先月、心理学実験で面接授業を受講し、また、認定心理師の資格の説明会にも出席させていただきました。

お話もとてもわかりやすく、生徒のことをとてもよく考えてお話してくださって、とてもよい先生だなあと思い、今回の講演会も期待して出席しました。

しかも、今回は先生の最終講義ということで、本当に私にとっては短い期間でしたが、先生の講義(心理学実験もそうですが)を受講できたこと、ラッキーだったなと思ってます。

 

直接講義をうけるということ

通信制の大学などは、ほとんど一人で(テレビやラジオなどを介して)講義を受けて、先生に直接指導をうけることはあまりありません。ゼミなどに参加できるといいんですが、現実は、働いていたり、介護や子育て、あるいは大学に行くことがさまざまな事情でできない人が多いから、参加は難しいのが実情です。

面接授業などで、とてもよい講義をきくことができたり、印象にのこる授業だったりすると、とてもうれしくなります。

しかし、授業を定期的に受講するということは本当に大変なことですね。つくづく、体力と気力が必要なことだと思います。

学生時代に、あんまり熱心に授業を聞いてこなかったことを反省してしまいます。(寝てばかりいました)

学べるときには、なかなかその有り難みは実感できないものです。

 

人前での社会心理学

さて、今回の講義では、人前でうまく話せなかったり、上がってしまうことなど、私たちが日常、遭遇する場面での心理を扱ったものです。

主に、先生のかつての研究、実験などを説明されて、そして、実際にプロのスポーツ選手などが陥ってしまうような心理的な症状、(イップスというそうですが)、体が固くなってしまったり、人前で話せなくなってしまうような症状など、さまざまな場合が紹介されました。

そして、それらは、簡単には克服できるものではないけれど、いくつかのヒントが紹介されました。

このようなことは、結構巷でも、書籍になったり、テレビやその他の媒体でも取り上げられることが多いような気がします。

講義の内容は、

実験室での研究

フィールド研究

対処法

(当日配られた資料より)

でした。

 

先生の論文を少し読んでみました。

   観察者の存在による選択反応時間の抑制1 

自己呈示行動と心拍に及ぼす他者存在の効果

観察者の存在が自己評価反応と心拍とに及ぼす効果

 

 

 

実験室での研究

ここでは、ヤーキス・ダットソンの法則というものが紹介されました。

(YERKES & DODSON の法則: 1908 JOURNAL OF COMPARATIVE NEUROLOGY AND PSYCHOLOGY, 18, 459-482)

ヤーキーズ・ドットソンの法則: Yerkes-Dodson's law)は、生理心理学基本法則である。心理学者のロバート・ヤーキーズとJ.D.ドットソンがネズミを用いた実験で発見した。学習活動に対する動機づけは適切なレベルにあることが必要であるとする理論。

ウィキペディアより

この法則では、緊張と成績に関して、刺激が行動を誘発する力(成績)と喚起(覚醒)水準の関係のグラフが紹介され、行動に最高の効果をもたらすには、低喚起から高喚起の間の喚起レベルが適切であると、示されています。

ほどほどの喚起、すなわち刺激がもっともよいパフォーマンスを生むらしいです。

あんまり、刺激のない、たとえば、フィードバックがなかったり、点数がつかない課題とかは、やっていても身につかないというか、どーでもいいやって感じになるんでしょうね。たぶん、よく学校で行われる小テストなんかもきちんと成績に反映されますよ、って先生にいわれると結構一生懸命にやるもんですね。

でも、その刺激が強すぎる、たとえば、罰が与えられる、みんなの前で叱られるなど過度な刺激はかえって逆効果になったり、あるいは、課題そのものが難しすぎるとパフォーマンスを発揮できなくなるようです。

もうひとつ、一人でなにかを行うときと、他者の存在があるときの行動について、そのパフォーマンスが影響される、という理論です。

 

ロバート・ザイアンスの社会的促進

ザイアンスは、社会的促進social facilitation:他者の存在が行為を促進したり、抑制したりすること) が人間や他の動物(特にゴキブリ)の間でどのように働くかを提示し、社会的促進が高次の認知過程の結果だけで生じているわけではないことを明らかにしたことでも知られている。

ウィキペディアより

 私自身、ごく短時間の講義で、そして資料も先生の実験を紹介されていたんですが、正直、なかなかわからない部分も多くありました。!(すみません!)

が、これらのさまざまな実験や、理論を基に、次の段階 フィールド研究が紹介されました。

 

弓道成績の観察者効果

先生が顧問をされていたという、弓道部でのフィールドワークから得られたさまざまな研究結果。

上級者と中級者、そして初心者の3つのレベルにおいて、それぞれみられている場合と一人でおこなう場合の成績の結果などが示されています。

先生の論文、

「あがり」に関する実証的研究 : 弓道における逆U 字仮説の検討

岐阜大学教育学部研究報告 人文科学 第40巻(1992)

には興味深い実験結果が示されていました。

実験では、試合に臨んだ弓道部の女子学生4名を被験者とし、それぞれの学生の一年次から3年次までの的中率を集計し、実験当時のそれぞれの弓道の技術水準を決めたうえで、実際の試合での記録を分析し、射込み、順立てという練習、そして試合という場面での的中率をグラフに示されています。

考察として、的中率に関しては、逆U字仮説を支持する結果が得られたことが記載されています。

すなわち、被験者4人とも、順立てという練習時が一番成績がよく、試合時での成績は悪くなったということです。喚起水準の高い試合中では、中程度の喚起水準にあるときより成績が悪くなるという。

 

ここでの考察はとても興味深いもので、このあと紹介された、あがりなどへの対処方法のヒントになるものです。

私たちは、こういう心理学的な話は、こうすればいいんだ、という結論だけを先取りし、わかったような気がするんですが、ここまで、実験やさまざまな仮説、理論をすこしでも読んでると、では、どうすればいいのかを自分の頭で考えることができるかもしれません。

ここまででわかることは、私たちが生きるこの社会の中では、他者の存在を無視することはできず、この他者の存在によってさまざまな生理的、心理的な影響をうける、ということでしょうね。

 

プロゴルファーの森田理香子さんが襲われたイップスという症状

ゴルフはぜんぜん、詳しくないので、この方についてはまったく知らなかったのですが、動画でその症状をみて、ちょっとショックをうけました。

プロスポーツでは、私など全く想像できないプレッシャーとの戦いであり、もちろん調子がよくて、結果がちゃんとでれば、その評価が高まり、その報酬は金銭もそうですが、さまざまな称賛を集め、モチベーションも高まることでしょう。

でも、いったん、なにかのきっかけで自信をなくすと、まさにそこから這い上がるにはたいへんな努力が必要のようです。

一時、ラグビーの五郎丸選手の、ルーティンが結構有名になりましたが、このルーティンという動作も、一つの対処法ですね。

この講義ではまあ、プロ選手のような特殊な環境ではなくとも、私たちも日常生活で緊張する場面、人前で話す、試験をうける、などなどでできる対処法が紹介されています。

1. 感情に働きかける

2. 行動にはたらきかける

3. 認知にはたらきかける 認知療法

が紹介されています。おそらく、いまやこれらの中身に関しては、いろいろ紹介されているとおもいます。

実験結果にもあるように、適度な喚起水準で、なにかの行動(これはルーティンにしてみる)、あとは、文字にして可視化することなど、問題をごちゃごちゃにしないで、書き出し、整理してみるなどがあります。日記をつけることは、たとえばかいているときの心の整理もありますが、あとから振り返ったとき、その当時に悩んでいたことを客観的に観察でき、あらたな問題に向かうための解決の糸口になることもあります。

私は、10年日記をつけていますが、ちょうど、その日のたとえば去年にはこんなことを悩んでいたんだ、とか、そこから時間が経過することの効用も感じられます。

 

そして、どうしようもできないこと、(天候、過去のミス、他人の言動、など)を心配することはやめることですね。

これらのことはスキルとして、自分自身への処方箋とすることで、役立つことがあるとおもいます。

本当にいろいろ考えさせられ、ごくあたりまえの心の動きをこうやってきちんと考えるは、これから心理学をすこしづつでも学んでいく私にとって大きな収穫となりました。

 

 

 

単位認定試験が終わり・・・

単位認定試験がおわり、ほっとした、というのもつかのま、恐ろしいほどの脱力感に見舞われてしまいました。

試験中は、さまざまなことがあり、途中で試験を受けられないかも、という事態に陥りそうになりながら、なんとか乗り越え、全科目(5科目)を受験することができたこと、本当によかったです。

そして、ここまでの間、すでに去年の12月から1月にかけて、ほぼ週末ごとの心理学実験の面接授業(2回)、そして心理学実習の面接授業、それらのレポートにずっと追われ、しかも、この試験勉強と、母の介護(といっても同居じゃないからずっと一緒にいるわけじゃないけど、車でしょっちゅう通っていた。)で、ずっと気が張っていました。

試験直前には母がデイで発熱があると、連絡があり、車でかけつけそのまま病院まで。

検査の結果インフルエンザではなかったものの、薬を飲ませるため、一日会社を休んで、週末母のところに通い、薬をしっかり飲んでもらい、食事の支度。

私はそのあと、しっかり風邪をひき、そのまま試験に突入。

試験中はこの地方もすごいさむさと、降雪。しかも、試験スケジュールが2科目のときなど、一時間目と8時間目とか、8時間目だけとか、もう、ずっと図書館にこもってました。

そして、極めつけは、試験があと数時間で始まる、というときに、デイから、お母さんが意識を失いかけているという連絡が。

去年の10月にもデイでのお風呂上がりに意識を失って、救急車で病院に運ばれたと連絡をうけ、そのときは仕事を切り上げ、すぐにかけつけることができましたが(結局元気でした)今回は、迎えにいくなんてこと、できない、と途方にくれてしまいました。

が、夜勤明けで弟が戻っていたので、迎えにいってくれました。そして自宅につれてもどってくれたので一安心。しかし、その間、携帯電話でやりとりして、そのたびに集中が途切れ、ほんとうに頭の中が混乱してしまいました。

とにかく、気を取り直し、なんとか最後まで試験をうけることができました。

試験が終わって現在はほぼ一週間が経ちましたが、ようやく、すこし気を取り直すことができてきました。

そして、今度は、次の科目登録と、そしてなにより、卒業研究がいよいよ、始まります。ゼミの担当教員の先生から4月からのゼミのスケジュールのメールをいただきました。

気が引き締まる思いです。

とにかく、私の研究テーマ。ぜんぜん、絞れてない。

つぎにむかって前進あるのみ、ですね。

 

 

いよいよ単位認定試験です。

明日から私の単位認定試験のスケジュールがはじまります。

それぞれ、一日に一科目か、二科目のペースですが、夕方近くの試験も、早めにいって学習センターで勉強するつもりです。

とくに今回は社会統計学入門が、実際の計算をすることになるので、落ち着いて臨めるよう、何度も過去問や提出した課題、また自主学習問題を解いています。印刷教材など持ち込みができるので、とにかく焦らないことです。

あとは、それぞれ、さいごの詰めを学習センターでやらないといけない。

今日は仕事なので、通勤の電車の中とか、これから出勤の前にもすこしやっていきたいです。

天候が荒れるようなので、不安ですが、とにかく目の前のことをきちんとこなしたいです。

がんばろー。