放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

大学院という選択

今日、大学院に関して、とても参考になる本を紹介していただきました。(何冊かあったのですが、以下の本以外は貸し出し中でかりることができませんでした)

 

養老院より大学院 (講談社文庫)

養老院より大学院 (講談社文庫)

 

 すぐに図書館に寄って、借りてきました。

図書館で借りたのハードカバーでしたが、文庫もでてるんですね。いまここで知りました。

そして、さっき読み終えました。とっても読みやすく、時々、読みながら、爆笑。

卒業研究の仕上げ部分をやろうとして、ついつい、読みふけってしまいました。

時々、大学院生が徹夜がつづいたり、研究室で寝泊まりするということを聞いたことがあったのですが、本をよんで、納得しました。

私はまだ卒業ではないので、卒業研究を終えてもまだ在学ということになりますが、その次を考えると、大学院という選択肢もありかな、とはおもっています。

ただ、自分がなにを研究していきたいのか、が明確でないと、ただ大学院という雰囲気というか、なんとなく勉強を続けたいなー、だけでは、受験の段階でも、いわんや、運良く入学できても、挫折しますね。多分。

内館さんの学びたいと思った原点は、「大相撲における土俵の女人禁制」について、ひいては、「大相撲」をもっと深く知ること、理論的に学ぶことでした。そのパッションは、途中失いかけても、原動力となっています。

私にそれだけの研究したいことがあるのか。

いや、一杯あるんですけど。じつは。

ありすぎて、迷うくらい。

高校生のころから、なんか哲学的なことや、宗教的なことを考えることが好きで、本も読んでいました。大学も哲学科みたいなところにも行きたかったのですが、結局目先に走った選択をして、就職と結婚。

父が私が20歳のときに急死したことも影響して、とりあえず早く結婚して、子どもを産んで、子育てをさっさと終えてから、やりたいことをやろうとおもっていました。

もちろん、結婚、子育て、義父の介護と死去、実母の介護真っ最中、と、いろいろありますが、それとこれとは、まったく別の次元で私の学びがあります。なので、先行研究など、文献をよんでいると、それこそ、内館さんの著書にもありますが、

社会人が大学や大学院に入った後、もしも若返ったとするならば、それは若い学生に囲まれているからではない。社会人の日常生活では考えられないようなことを習うからである。社会人がついも身を置いている日常や現実の中では、とうに忘れていたことを教わるからである。

P109  第五章 「非日常」に若返る社会人

の様な心境、

つまり非日常に浸ることができるのです。これは、たとえば映画やドラマ(SFなど、それこそ非日常を扱ったものなど)お芝居やその他、人によって、その非日常感を得るものは違いますが、私は、非日常を学びの中で体験することに大きな喜びを感じます。なので、大きな図書館などで、たくさんの蔵書に囲まれていると、昔からの多くの知恵と英知が詰まっているその空間にとてもやすらぎと、喜びを感じるのです。

 

しかし、それはまさに人それぞれ。

一人一人が、なにが自分にとって非日常であり、そこに浸ることで、生きる活力を得ていくのかを見つけることが、この複雑な世の中を生き抜くことに必要だと思います。

 

また、著書の中にも激しく同意する部分。

 

だいたい、どう考えてみたところで、社会人が大学や大学院に行くのは「趣味の領域」である。

社会人になって再び学問をするということは、これはもう、よほどの例外を除いて「趣味」である。中高年の社会人学生がこれからの日本を、そして世界を背負うわけではないし、もとより誰もそんなことは期待していない。 P153 「第六章 得たもの失ったもの」

 まさに、卒業研究をやりながら、その頭の中の飽和状態を感じつつ、もうだめ、とおもっている自分を、外からみている自分がいて、なんて幸せな時間なんだろーと。つまり、「痛、気持ちいい」感じです。これは完全に、趣味の世界だろうなと。

生活が困窮していたら、こんなことしてられない。

子どもが小さいときには、勉強なんてできっこないのは当たり前です。

背負うものがない、責任がないとはなんと楽なことでしょう。

また、誰かと、競うこともしなくてもいいこと。もちろん、ライバルなどがいた方がいいかもしれません。でも、年齢を経ると、あまり競争心も沸かなくなります。つまり人のことはどーでもよくなってしまうんです。

若いときのように、人とたえず比較してしまうとか、ピリピリした感じもなくなってきました。疲れちゃうんですね。

そんなことにエネルギーを使うより、すこしでも、本読んだり、じっくり学問の中に浸って考えることに集中したい、と思えるような心境です。

 

 

たしかに、大学院は大変でしょう、大変だ、むずかしい、などなど、ありますが、もし、本当に続けることが困難なら、すっぱりやめることも選択できるわけです。

趣味ですからね。

というと、なんか無責任な感じがしますが、それくらい、気持ちをちょっと広げて受け止めることも大事かなと。悩んでしまっても、ふっと我に返って、あ、これは自分の趣味だし、と。

けれど、やはり始めるには無理は禁物です。まさに現在お金を貯めなくてはいけない、家族のことでやることがたくさん(子どもが小さい、親の病気や介護、夫(妻)の病気や、失業などなど)などの状況を押して、できるものでもないことは自明です。

ものごとには、「適した時期」があるとも思います。

人生というアップダウンを繰り返す中で、うまく波にのれるときに、ぱっと乗る。

いい波がこなかったら、じっと待つことも必要です。

待つことと、波にのること。この時期さえ大きくはずさなければ、あとはなんとかなるし、また、細くてもいいから、人とのコミュニケーションをつないでおくことでしょうか。

 

まだまだ、私はこれから卒業研究を締め切りに間に合うように仕上げ、単位もとっていかなければなりませんが、まさに趣味の世界であそんでいるともいえます。

こんなことに没頭できることに、ほんと,感謝です。

 

 

 

 

 

卒業研究の進み具合

11月1日の最終締め切りに向かって、おそらくゼミごとにステップがあるだろうと思いますが、私のゼミではとりあえず、10月1日がプチ締め切り(担当教員に提出)です。

普段の仕事で、「納期」にいつも追いまくられているため、この締め切りには異常なほど神経質になります。

つまり,毎日が締め切り日のような感覚に陥っています。そして、その完成形をつねに頭に思い描き、締め切り日あるいは納期から逆算して、ここまではここまで、やっておこうということを考えます。

最後の追い込みはおそらくパニックになる私にとっては、すこしでも先に進めておいて、ちょっと余裕かなぐらいまで最初を締めていきます。それが今日の夕方であろうが,一週間後であろうが、一か月後であろうが、同じです。

私にとって、論文を書くということは初めての体験です。なにもかもが新しく、とにかくいつも最初から壁にぶつかりっばなし。

今回も、分析ソフトを使って数字は出たものの、それをどのように処理していくか。

ここで、いままでとても苦労してみつけてきた、あるいはその研究意義などが、必要になってくると、いまさらながら思います。

つまり、この尺度をつくるにあたってどんなことを考えてきたのか、そもそも、なぜこの研究をしようと思ったのか、なにが知りたいのか、その問題意識が深くないと、最後の考察や、そもそもの問題の部分がかけないということです。

たえず、原点にもどり、人から与えられた問題意識ではなく、あくまで自分が解決したいと思った問題について、様々な手法を経ながら、その経緯をふくめ、記述していくことが求められるように思います。

私は、人になかなか尋ねることができず、自分でとにかくぎりぎりまで調べようとしてしまいます。

そうすると、情報があふれ返って、頭の中が飽和状態に。

 

ここで、以前読んだ本、「勉強の哲学」の言葉が頭をよぎります。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 ここで、著者は、教員の存在を、勉強のきりのなさに対する「有限化」してくれるものとして述べています。私自身は、今回のこの体験を通じて、やはり担当教員の存在はその情報の「有限化」としての存在であり、それ以上でも、それ以下でもないという印象を強く受けました。

それは、教員は学生を指導する立場であるわけですが、学生にとってはあくまで勉強するのは自分であり、ましてや教員に自分の研究テーマのすべてを話したり、わかってもらうことはできません。(自分でも、わかっていないのに、できるはずはないです)

私自身、この勉強が始まってから、そういうことは覚悟していましたが、やはり、大半は自分の試行錯誤です。

勉強というのは、自分で文献を読んで考察するのが本体であり、教師の話しは補助的なものです。

教師はまずは「このくらいでいい」という勉強の有限化をしてくれる存在である。                 (p182)  

とあります。

また、その教員が示した選択肢なども、一度は検討するものの、どうしてもそれが納得できなければ、(たくさん調べても)それは違うと判断します。それも自分ですることです。

このような作業は、やはり人によっては、教員が厳しいとか、冷たいとか、あるいは無視されたんじゃないかとか、感情的になることもあるかもしれません。

が、勉強が楽しいのは、それが自分で獲得していくものだから、だと思います。

もちろん、自分でなにもかもができるはずはなく、そこには多くの人の協力や支えがあって成り立つわけですが、自分の知りたいこと、研究したいことは、他人にわかってもらえる形にするまでは、ずーっと自分で考えつづけないといけない。

今回の放送大学もそうですが、通信制であることにかぎらず、たとえば独学してなにかを研究している人たちもたくさんいると思います。

それぞれの学びの形は違いますが、共通すること、それは自分が知りたいということについてどのようにアプローチし、それを自分で調べ、検証し、その時点での結果を導いていけるかだと思います。

ここまで書いて、なんか、教員という存在とはどういうものなのか、と考えました。

それは、やはり人として、その方がどのように生きてきたか、どのような考えをもって著作や論文を書いてみえたのか、ということを知ることが大切かなと。

つまり、その分野のエキスパートとして、どのように問題意識をもっていままで問題に取り組んでみえたのかを、自分なりに調べ、そしてそれを参考になる部分や、共感できる部分は取り入れていくことかなと。

あくまで主軸は「自分」です。

これらの体験は卒業研究に挑戦することで得られたものです。もちろん、まだ終わっていません。これから毎日が締め切りとしてこつこつ、最後まで走り続けていきます。

 

 

 

 

科目登録完了

卒業研究のゼミ、それに関連する様々な出来事や、連絡の取り合いなどで、あっと言う間に8月末。いつもなら、さっさと科目登録するはずがこんな時期になってしまったけど、今日登録完了。今回は、卒研の最後の追い込みを考え、一科目にしました。

 

科目登録は一応、認定心理士の資格申請にあわせて選択しますが、私自身、この資格をどうしても取りたいということではなく、科目選択の基準として考えていて、この資格に必要な科目であるということは、心理学を学ぶ上で最低限これらは知っておいていいというものなんだ、という認識で参考にしています。

資格申請のためのツールを使っているのですが、じつは、基礎科目である心理学概論のa領域で、おおきなショックを受けました。というのも、私は2016年に心理学概論(2012)の単位を取得しているのですが、なんと、これはだめみたいで、心理学概論(2018)をとらないといけないようなんです。(a領域の認定条件をみたしていません、という表示がでる) このa領域に関しては、以前こんな指摘はなかったと思うんですが、それは旧基準だったのかなあ、と。うーん、もう一回概論をとるのかーと。

今回はそれは来年にして、とりあえず、今期は生理心理学だけにしました。また、学習センターなど、どこかで聞いてこないといけませんね。

 

でも、ほぼ必要な単位はみたしつつあります。あと今期は、この卒業研究がどうなるか。うまく着地できるといいのですが。不安になりつつも、とにかくまとめてやるというより、一日一日こつこつと積み重ねていきたいです。

 

 

今期の単位認定試験を終了(全体の単位認定試験は今日まで)

昨日で私が選択した科目の単位認定試験は終了。

終わったらゆっくりしたい!と思っていたものの、今朝からの猛暑で、たまっている作業(家庭菜園の草取りなど)はちょっとできる状態ではありませんので、自宅待機です。

 

今期私が選択した科目は以下の4つです:

錯覚の科学

心理臨床と身体の病

交通心理学

心理臨床の基礎

 

どれも、講義をうけ始めるととても面白く、なんか、科目名は地味な感じですが、(そんなもんですよね。教科書って) 一つ一つの科目の世界はたいへん奥深く、もちろん、基礎の基礎部分ではありますが、心理臨床などは、入学してはじめて学ぶ部分 (概論では少し触れられていましたが) だったので、ほんとうにおもしろかった。

なので、今回は放送授業での講義、一回一回が印象に残っていて、そんなにきりきりと勉強しなきゃ、というスタンスでなくてもよかったのが,卒業研究で忙しかった身には助かりました。

それぞれの科目を少し振り返ってみます。

 

錯覚の科学

なんといっても、錯覚ワールドを存分に楽しめる講義でした。

講義の合間には、錯覚シアターや、錯視をとりいれたアート、また名画などにとりいれられている、錯視を使った技法など、とにかく講義がたのしい。

それと同時に、錯覚がおこるメカニズムや、そもそも、錯覚と心理ってどうしてむすびつくの、という疑問にもこたえてくれるものです。

私たちは目でものをみている、あるいは耳でなにかの音を聴いている、と思っています。しかし、実際は、それらの器官を通じて、脳で見て、聴いているんだということを知りました。そして、それらは私たちがよりよく生きていくためのものである、つまり、適応していくために必要なことである、ということだそうです。

認知心理学を学んだことと、重なる部分もあり、そういう面で、基礎的な知識のベースがあったことも理解を深める要因となりました。そう考えると、認知心理学などは、心理学を学ぶとき、最初のころに科目選択をしておくといいかもしれません。

 

交通心理学

そのまま、ずばり、交通に関する心理学です。人々の移動はまさに古くからあるわけで、その手段はさまざまです。私たち一人一人が交通参加者といって、歩行者であり、あるいは自転車、自動車、二輪車、車椅子などもふくめ、対象はすべての移動ができる人が対象です。

最近、車を運転する機会が増えた私にとってはまさにぴったりの講義でした。

実は、私はいまの車を購入する前(ほぼ3年前)まで、マニュアル車を運転していました。(私の世代では、教習所ではマニュアル車が主流でした)

でも、現在はオートマティック車を運転しています。車購入の際のマニュアル車から、オートマチックにすることに関して、不安があったので(オートマチックは楽だよ、とは言われていたけど)、やはりだれかにきちんと教えてもらいたいと思い、最初は自動車教習所にたずねてみたんだけど、断られました。で、ネットで調べて、個人的にきちんと教えてくれるところを探し、来ていただいて、新しい車に、一緒に乗っていただいて、教えていただきました。

そのとき、私には、よくない癖がいくつかあって、それを指摘されました。

まったく自覚していなかったことで、私は、オートマチック車の操作を教えてもらうつもりが、じつは、ここで私自身の運転のフィードバックをもらえたこととなりました。

これは、講義にも含まれているんですが、職業ドライバーのように、定期的にフィードバックや講習などがない、一般ドライバーは、経験を積むことにより、自分の運転技術を過信する傾向があるそうで、だいたいは、自分は大丈夫と思い込むようです。

もちろん、初心者のころと経験を積んできたころと比較すると、その注意の質が変わってきて、経験者ならではのよいところもあるようですが、過信はだれにでもおこることです。

私はよい機会にフィードバックを受けることができて、とてもラッキーでした。

運転する人は、年齢にかかわらず、定期的に自分の運転を見直す機会を設けるべきではないかと思います。とくにいまはドライブレコーダーをつける車も多くなっているので、それを利用して、できれば指導できる方とともにその動画をみて、検証する機会は必要ですね。同乗する家族から指摘されると腹が立ったりするものも、第三者からの検証は、案外素直に認めるものですね。

あと、小学生や中学生、高校生の交通に対する教育はもっと、必要なんじゃないかと。

講義中では、そのような教育の場面がありましたが (研究目的でもありますが) 、学校にこのような機会を設けることはなかなか難しいようです。

ちゃんと教育を受けた子どもたちは、きちんとそれを身につけることで自分の身を守ることができます。交通事故は、子どもたちにとってとても身近な脅威です。大人がずっとついていることができないからこそ、交通マナーをふくめ、自分が自分の身を守るんだという自覚をふくめた教育は必要だと、講義を受けながら感じました。

 

心理臨床と身体の病

この科目も、心とからだが別々ではなく、相互に影響されるものであり、からだの病は、ただ治療するだけでなく、心の面でもサポートする必要があるということを学びました。そしてそこで働く心理士のみなさんの実務と経験を講義の中のインタビューや、その施設内での仕事されている様子など、また講義を担当された講師のみなさんのお話はとても印象的でした。

私が印象的だったのは、周産期の医療をめぐる心理臨床です。

お産は、日本ではごくあたりまえに、母子とも安全がほぼ保証された状態でおこなわれているんですが、じつはとても危険な時期でもあるということと、それは、母子のからだだけでなく、心も不安定な時期であるということ、を学びました。

この時期の母子の心の状態が、その後の親子の関係におおいに影響をすること、そうすると、心理的にみても、この出産が母子とも、健康に、心が通い合いあったものであれば、その後の人生に少々くらいの難しいことがあっても、乗り越えられていく、大切な時期だということ、よーくわかりました。

 

そう考えると、この周産期の心のケアはもっと注目されていいのではないかなと思いました。

あと、第15回の講義では、各講義の講師が集まり、座談会ということでみなさんがお話されていた内容がとても印象的でした。

とくに、医療にかかわることから、それぞれの医療分野での専門知識を勉強しないといけないこと、実際に心理士から、医学部に入学し、卒業された講師もいらっしゃいました。驚くべきことですが、ほかの講師の方々もしきりに、それくらい専門性が必要であるとおっしゃっていました。講師のみなさんの仕事への真摯な姿勢にすごい、と思いながら、このような講師の講義を受けたこと、うれしく思います。

この辺も、放送大学のすごいところなんですよね。すばらしい講師陣なんです。

 

心理臨床の基礎

臨床心理学というのは、心理学とはどんな分野かと考えるとき、まず、思い浮かべる分野ではないかと思うくらい、よく知られているのではないでしょうか。(すくなくとも、私はそうでした)

ここでは、心理臨床の基礎、心理臨床アセスメント、心理療法、コミュニティ援助などが扱われています。

どの項目も以前から本を読んだりしていたものですが、このような講義を受けると、きちんと系統立てて学ぶことが大切だということを痛感します。あちこちつまんで読んでいても、頭にはいらないものです。

アセスメントは、去年の心理臨床の面接授業で経験しているので、その難しさをすこしはわかっているつもりですが、じつにさまざまなアセスメントがあるもんだと思います。

これが正しくできないと、診断できないし、治療方針もままならないでしょうね。でも、投影法など、経験が重ねないととても自信もってできないことなんでしょう。

 

ユングの深層心理などは、おもしろいし、興味深いものです。

心理学を学びはじめたころ、

 

まんが うつと向き合う―ユング心理学を用いたカウンセリング

まんが うつと向き合う―ユング心理学を用いたカウンセリング

 

 という本を購入して、読みました。

うつを発症した著者原作のマンガと、それを治療した、心療内科精神科医ユング心理学を専門とする臨床心理士の方々の解説が書かれています。

とくに夢については、絵に描かれているととてもイメージしやすく、カラーで描かれていて、その不思議さと、美しさにびっくりするくらいです。

そこでの、臨床心理士の、カウンセリングの様子などが描かれていますが、すごく不思議な感じでした。でも、これは患者であった著者の目からみた、カウンセリングの様子であり、印象なので、そのままをそのカウンセリングの様子とはできないと思います。

今回、あらためて、心理臨床の基礎を学んで、さまざまな先人たちの研究や理論が積み重ねられ、人間の心という得体のしれないものの病や、その治療に挑んできたことが少しはわかった気がしているわけですが、まだまだ、わからないことは山ほどあるものですね。

たまに友人から相談をうけると、安易に言葉をかけることをためらってしまいます。

それもこのような学びの中で、人の心の不安定さや、その人が自分自身で立ち直ろうとする力を応援するにはどうしたらいいんだろう、と考えあぐねてしまうからかもしれません。

 

今回4つの科目を履修した、私なりの感想です。講義をうける前と後ではその印象はほんとうに変わるものです。また次の科目選択にむけて考えていきたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

卒業研究は、アンケート作成までこぎつけました。

もう、単位認定試験が始まる時期となりました。

卒業研究にかかりきりで、放送授業はなんとか全部視聴はできたけど、まだきちんとテキストを読んでいません。でもどの科目も、とても興味深く、面白いので、去年統計の勉強で大変だったので、それに比べればまだ、なんとかなるかな、と、甘い考えではあります。

 

卒業研究の進み具合

ようやく、アンケートを作成して、ゼミのみなさんに何度もみてもらい、なんとか、まとまってきたというところです。

既存の尺度を使えばいいや、と安易に考えていたこと。

大きな間違いでした。

私が調べたいことでは、ぴったりとあてはまる尺度がなく、調査などをしたことのない私は、焦ってしまいました。

どうしたらいいのか、どうやってつくるのか。

もちろん、基本となるモデルはあるので、まったくゼロからの作成ではないものの、あわててしまいました。

自分が調べたいことが、先行研究の中のどんな理論を基礎とするのか、それを探すことにとても苦労し、迷走しながら、やっとモデルをみつけたものの、その理論に依拠する研究に使われる尺度は、そのままでは使えないことが明らかでした。

先行研究の文献(論文や書籍など)を読むと、尺度の作成には予備調査をすることや、またそこから再調査という手順を踏むようなことが書いてあります。

本当はそこまでやらなければ、より正しく測定できる尺度をつくることができないのでしょう。

しかし、時間も手間もかけられない、ということで、ひたすら、自分で考え、関連する書籍などを読み、作成しました。ゼミのみなさんにはいつも会えるわけではないので、そこは、現代の利器、ネットを利用して、途中経過として、できたものをアップして、みなさんに検討していただきました。

 

通信教育はインターネットを大いに活用

通信教育というのは、たしかに学校に行って、そこでゼミ仲間に会って話し合うとか、先生にアドバイスを頻繁にもらうことはできません。

でも、インターネットを活用すれば、時間も関係なく、自分の計画や、質問などもアップして、つながっているみなさんに発信することができます。

ただ、アップするまで、ある程度まとめたものをつくらないといけないので、そこが大変ですが、その過程で自分の考えをまとめようとするので、むしろ、中途半端にだれかに会ってきけばいい、ということにはなりません。

 

そこで痛感したのは、普段から何らかの形で誰かとつながっていることが必要だということです。こんなことを(アンケート調査など)しなければ、実感しなかっただろうと思うこと、たとえば、メールアドレスを交換している、連絡先の交換をしていること、いまは、ラインのグループなどをつくっていることなどなど。

 

もちろん、アンケートを送っていいかどうかの許可をもらうことは必要だと思うけれど、事前に了承を得ておけば、まとめて送ることができます。(しかし、これが正しいサンプル抽出かは、疑問ですね。なので今回限りとなりますが)

 

いまや、アンケートを、たとえば学校などの授業の際に行なうための許可を得ることがむずかしくなっているようです。

なので、インターネット調査会社にお金を支払って、調査を依頼することが 珍しくなくなっています。

研究費が準備されている調査などには大変便利ですね。

 

すべては勉強

ただ、これら一連の過程を経験することが、この卒業研究を履修する目的であり、学習するという観点では、うまくいくか、いかないか、というより、このような経験をすることが、大切なんだと、自分にいいきかせています。

時々、本当にくじけそうになって、もう、やめようか、と思うことは何度もありました。もちろん、これからアンケートの結果を分析する上でも、どんな結果がでてくるか、仮説をある程度フォローするものになるのか、ならないのか。それよりも、尺度の信頼性や妥当性などは大丈夫かなどなど。

 

心配するときりがないので、ま、とりあえずみなさんにアンケートを配布します。

 

ああ、どきどきする。

 

それもそうだけど、単位認定試験の勉強しないといけない。

大変だけど、自分のことで勉強できる、そんな時間を与えられていることにとても感謝です。

 

暑いけど、がんばろう

 

学び続けることについて Part 1.

今朝の朝日新聞、「経済気象台」コラムには、何度でも学べる社会に、というタイトルの内容がのっていました。

その内容のなかで、

国の調査をみても、民間企業における一人当たりの教育訓練費は1990年代以降漸減傾向にある。働き方が多様になり、転職で人材の流動性が高まっている折、一人ひとりが就職後も学びつづけ、専門性やスキルを向上させることが非常に重要になってきている。(L.36-47)

とありました。

まだまだ、大企業に就職したり、公務員になって、人生安泰である、という考え方も根強くあるかと思いますが、情報通信の発達や、多様な生き方というものを選択することができるようになった分、若者が、転職や、会社をやめるという選択肢もありかな、という世の中になってきたことで、企業も人を育てるという部分に関して、お金をつかうことが減ってきたのかもしれません。

多様な生き方とは、どういう生き方か。

たとえば、学校にいる間はとりあえず、短期の目標があります。

卒業するとか、あるいはもっと上級の学校にいくための準備とか、スポーツで大会に出場するとか・・・

でも、働くことが中心になった生活に突入すると、それはそれで、たいへんです。

一生懸命就活し、やっと入った会社で、とにかく慣れるためにはしばらくがんばらないといけない、とか、正社員とかじゃなくても、パートでも、アルバイトでも、とにかく働くことは、身も心もつかれます。

そんな状態で、がんばって、なんとか慣れてきた、というところで、時間に余裕ができ、いまの生活をあらためて見直してみたとき、なんとなく、このままでいいのかなと。

多くの人は、やはり、仕事を中心にしながら、休みにはすきなことをすればいい、と思うのはごく当たり前のことです。

 

学ぶことは、特別なことじゃない・・・働くことと学ぶこと

 私は、短大を卒業し、就職して、務めている間に、たまたま知り合ったいまの夫と結婚し、一年ほど、仕事と結婚生活を両立し、退職しました。

私は、働く職種に関しては、とても無頓着で、なおかつ、好奇心旺盛なので、まずは、結婚して、お腹に子どもを身ごもったときに、1カ月(夏休みくらいのあいだ) ほど、アパートの直ぐ近くにあったラブホテルの清掃係(ベットメイクとか、お風呂を洗うとか)として、働きました。

そこで一緒に働いていた方々のお話など聞きながら、人生いろいろだなーと。自分の知らない世界がそこにもありました。部屋を効率よく片づけることも(お風呂はつかったバスタオルで拭いちゃうとか、いろいろ) 教わりました。

そして、二人の子どもの出産と、彼女らが、保育園に入園のころ、今度は早朝の新聞配達をはじめました。帰りの遅い夫に子育てを期待するのは、きっぱりあきらめていたんですが、すくなくとも、このころ私自身は、小金をため、そろそろ、「勉強」をはじめようかなと、思っていました。ちょうど、そのとき、近所の朝日新聞の販売店で、配達員の募集がありました。

昼間は家事や子どものお迎えもあり、通常の昼間働くパートは難しいと思ったのと、ほぼ深夜に出勤するので、いくら帰りが遅い夫でも、深夜には帰宅して就寝していたので、(お酒を飲んで、かえってこないことも多々ありましたが) 子どもたちだけになることも少ないと、思ったことと、 新聞が大好きで、毎朝、新聞配達のみなさんはどうやって配っているんだろう、という興味もあったのです。

のちのち、そのたいへんさが身にしみるのですが、結局17年ほどつづけることができました。

そして、お金を貯めて、再開したい思った勉強は、英語でした。

再開、としたのは、私は短大で英語科に所属していました。もっとも、英語が好きだったわけではないと思います。英語は、たとえば、私が日本語を母国語として話すことができるように、それをつかって、なにかをする、という手段にすぎないわけですから、英語がつかえる、なにか、を探さなくてはなりませんでした。

といっても、そのときは英語の勉強を一から、つまり文法からはじめるために、週一でYWCAに通いました。

もちろん、新聞配達で稼いだお金で、といいたいところですが、べつにお金に色がついているわけでなく、夫の収入分は、そのころから、もうちょこちょこ自分のためにつかうということにはまったく抵抗がありませんでした。

ごく普通に、私は家庭のなかに自分の勉強をとりいれていきましたが、それが収入に結びつくことはありませんでした。ただ、外へでて、学校に週一でも行くことで、またいろんな出会いがありました。

けれど、ある意味それは自己満足のようなものだったかもしれません。

英検をうけたり、あるいは、もうちょっと進んで、テクニカルライティングというものをまなび、工業英検も受験しました。英語を学べるサークルのようなものに参加するため大阪までいったこともありました。

その後、新聞の求人欄に、特許明細書の要約を翻訳する仕事が掲載され、応募してトライアルをうけると、合格。(自宅で作業して、ネットを介して納品)

だいたい、当時は特許明細書などみたこともなく、とりあえず、PCに専用のソフトをインストールし、その会社からの案件をいただいて、わけのわからない、特許用語と格闘しながら、ひたすら、特許の要約の翻訳を(和訳)をしました。これが、はじめての英語を通じての、収入に結びついたものです。

働くことが、学ぶことと一体になるのは、本人の考え一つかもしれません。ただ、経験値を積むことは、その学びという営みの一つにすぎないかもしれません。

 

学ぶことは、結果を期待しつつ、模索し、もがくことかも

その間も、ずっともやもやしていました。私のしたいことはなんだろう。

新聞配達と、特許の要約の和訳、そしてまた、お金欲しさに、今度は近所の精肉屋さんにパートで働きに出るという生活。

自分でもあきれるくらい、くるくるとよく働きましたが、勉強していたい、学びたいという「思い」はずっとありました。

別に生活が苦しいというわけではなかったのですが (夫はまじめに働いてくれています) 、学びたいという思いと、なにを学んでいいのかわからないという思い。で、結局そのもやもや感から逃げるために仕事を増やしていたのではないかと、いま振り返って思うわけです。

 

上述の、コラムの執筆者は第一線で活躍している経済人、学者とありますので、まさに学びが、ご自身のスキルや、仕事に結びつくものであったわけですが、そのような学びだけではないと思います。

 

つまり、現実に就いている仕事とは関係ないことや、自分ではなかなか認識できないこと、なにを学んだらいいんだろう、ということがわからない人たちがたくさんいるのではないかなーと。

結果をだす、ということが、最終目標にはならない、と思います。

いまの歩んでいる、この毎日が、そしてそのなかで、一歩でも二歩でも、自分が学びたいことはなんだろうと、あきらめず、求め続けること。

10年単位で物事を考えることと、今日一日、明日までのことしか考えられないこととは、違うことではないと思います。

今日一日は、10年の重さがあり、また、10年は今日一日の重さでもあります。

心理学を学びながら、つくづく、人間という生き物、その思考や、存在が深いものかと感じるし、まだ、わからないことが次から次へとあらわれてきます。

 

つづきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新しい学期がはじまりました。

すでに4月も半ば。

今期は、私は卒業研究があるため、面接授業は申請せず、放送授業は4つの科目を選択しました。

錯覚の科学

心理臨床の基礎

心理臨床と身体の病

交通心理学

です。

すでに、各科目第二週までは視聴しました。(交通心理学は今日視聴予定)

タブレットで視聴するので、いつでも自分のペースでみること、聞くことができるのでそういう面は通信の強みですね。

最近、ちょこちょこ、新しく通信制の大学ができたり、普通の大学でも、講義をタブレットで視聴できるなどの試みがなされているようです。

ただ、屋外だと、ワイファイ環境など、セキュリティが心配だったり、動画だと重くなったりとまだ、屋外環境は難しいこともあるかもしれませんが、自宅だったらほんとに気軽にできます。

心理臨床は、じつは心理概論以外で科目として学ぶのははじめてです。

心理学というと、この放送大学で学ぶときに、おもに心理臨床(カウンセリングとか、フロイトとか、ユングとか・・・)のイメージが強くて、その後、社会心理学や、認知心理学を学んでいくことで、心理学の私がいだいていた思いが、いい意味で裏切られていきました。

今回、心理臨床の基礎と、心理臨床と身体の病、の二つの科目を通して、どんなことを学べるのか、たのしみです。

認定心理士の資格も視野に入れているので、さまざまな分野の心理学をまずは広く浅く学ぶことが目標です。

また、卒業研究のゼミもはじまります。

実は、もう、そっちのことで、ずーっと頭のなかは一杯です。

今度の第一回のゼミで自分のやりたい研究についての簡単な説明をおこなうんですが、そのときの資料を作成しないといけません。今日もこれから図書館にいって、いくつかの文献をあたりつつ、作成するつもりです。

当初の内容とかなり異なることになるので、そのへんをきちんと説明しつつ、今回なにを明らかにしたいのか、を発表します。

うーん。

ある程度絞り込んだんですが、それを、どんな統計方法をつかっておこなうのか。

尺度もきめないと。

今日、なんとかまとめたいです。わからなことは、調べた上で、ゼミで質問するなり、またつっこまれたときに、気づくことがあると思うので、ま、なんとかなるということでやってきます。