放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

いよいよ、卒業へ

1月末の単位認定試験が終わり、もう2月となりました。

その認定試験の間に、卒業予定者の氏名等のお知らせが届きました。

そしてその後、卒業が見込まれるみなさまへ、という通知がとどきました。

放送大学に入学したとき、単位をどのようにとっていけばいいのかずいぶん悩みました。

システムWAKABAから、あるいは試験結果をもらった時点であとどれだけ単位をとればいいのかを確認できますが、最終的にどのような形で通知がくるのか、先が見えないだけにあれこれ、悩んだことをいまは懐かしく思います。

もちろん、まだ単位認定試験の結果が出てないので、再試験が必要なものがあれば卒業はお預けにはなりますが、とりあえず、ここで一区切りがつけそうです。

今回、大学院の選科生として1学期は現代社会心理学特論を受講しました。そして、2学期は公共哲学を受講しました。

教養学部で、まず最初に心理と教育のコースを選んで学んだことは私にとって、とてもよかったと思っています。

心理と教育の問題は、人として、まずは自分自身、そして他者という関係におけるさまざまな課題を考える材料となります。私自身、生きていくための基礎的なことを、自分の心、そしてそこから派生することや、他者との関係について、さまざまな視点から、多くの研究、新しい研究から時代を超えて、受け継がれる研究などを学びました。

もちろん、ざっとではありますが、まずはそのような学問、研究があるんだということを知ることができたことは大きな収穫となりました。

今回の科目は主に臨床(乳幼児、思春期や青年期、中高年など)を学びましたが、おそらく今までの科目のなかでいままでの概念的なものや、学問的なものとはちがう実践を通じた科目であったことから、学びながらとても面白く、何度もテキストを読みこみました。

これらは、しかし、心理学や教育の学びの最初の時点で、さまざまな概念や、研究を知ることから始めたからこそ、実際の臨床の場での学びに深みが増した、理解がより進んだんだと思っています。

最初はとてもわかりにくく、印刷教材に沢山の書き込みをしていました。

そして、ようやく、いま心理学や教育についてぼんやりながら、その体系的なものを学んだんだなという満足感と、次に向かうための学びの萌芽が現れています。

そのきっかけとなったのは、選科として選んだ「公共哲学」です。

心理学の学びをもっと深くすることも考えたのですが、今度は、心理学を学んだことを基礎に、今度は、社会や政治について考えたいと思うようになりました。

特に、今年はアメリカ大統領選挙の年です。

ドナルドトランプが大統領になったとき、私は相当なショックを受けました。

なぜ、アメリカはこの人を大統領に選んだのだろう。

そこから始まってさまざまな社会の制度や、民主主義ってなんだろう、ということを考えるようになりました。

ミルグラム服従実験は、いかに状況の、人に及ぼす影響が大きいかを示しています。

かつての情報が少なく、身近なコミニティのみの情報で生きていける時代ではなくなりました。つまり、状況が及ぼす影響がかつてなく大きくなっているともいえます。

だからこそ、より多面的なものの見方をすることがとても大切ですし、絶えず自分の考えを更新し、疑うこと、複眼的な思考を教えてくれたのも心理学を学んだからこそです。

心理学で学んだことをまずは、しっかりと心に刻みつつ、次のステップに進みたいと思います。

 

 

 

 

 

乳幼児児童の心理臨床

こちらも来週がテスト。

さまざまな子どもに対する心理臨床がありますが、特に子どもに対する認知行動療法アプローチはいいなと思います。

なぜかというと、そこには子ども自身が自分をコントロールする術を身につけることができるからです。

さまざまな悩みとは、結局自分がどのような思考の癖があるからか、というところからも出てきます。

目の前で起こったこと、自分に対する他の人(家族を含む)の働きかけは、事実としてあるわけですが、それをどのように自分が解釈し、受け入れるかあるいは否定するかは自分次第。

子どもであれば、経済的に親に依存せざるをえないし、学校という枠組みのなかで、自分では選択できない環境での生活を強いられます。

選択できない、ということはかなりのストレスだし、それに対処するためのスキルが必要です。

認知行動療法にはいろんなスキルが紹介されています。

学校の授業などで取り上げてほしいものばかりです。子どもたちは、ゲームが大好きですし、ゲーム感覚で、自分の立場をさまざまなキャラに置き換えてみたりすることもいいかもしれません。

自分の感情や行動が、あるスキルを学ぶことでコントロール可能なものであるということを身体で感じることが、社会人になっても十分役立つことになると思いますね。

公共的問題としての科学技術(第13章)

だいじょうぶかなあと不安になりつつも、ひたすらテキストを音読。

なぜ、音読かというと、黙読していると途中で迷子になってしまうから。

 

今日はひとつ、普段なぜかなあーと思っていたことについてなるほどと思ったこと。

まず,科学技術とはどんなことだろうかと考えると、エネルギー関連や、医療、宇宙関連やAI、IT、情報通信エトセトラ。

私たち消費者はたいてい、それらに対して間接的にあるいは直接的に恩恵を受けることが多いわけですが、これがいいことずくめでもないことも多々あります。

たとえば、放射線量のこと。

健康診断などでレントゲン診断のために被爆することと、原子力発電所の事故で環境に放出された放射線被爆のリスク。

詳しいことはおいておくとして、これらを単純に比較することはできない、という直感が働きます。

環境に放出された放射線が非常に低線量であっても、私たちはそれを受け入れることはできないと思います。

なぜなのか。

まず、大前提として科学技術に対してのイメージは、曖昧さがなく答えがきちんと決まっているというものです。

しかし、科学は未知の領域を扱うものであり、私たちが思っているほど正しさがあるわけではない。

科学技術の知識もなく、専門用語もよくわからないけど、健康診断で被爆するリスクと放出された放射線被曝のリスクとの差異はなにかというと、そこに人の「選択可能性」「信頼性」「責任」などが関わってくるということ。

もし、放射線量が人体に及ぼす影響が小さいから大丈夫と専門家や行政に関わる人たちが決定をして、そのことを実際に被爆する恐れのある住民に公にしなかったとしたら、この問題はどうなるだろうか。

そこには、人々の行政や専門家たちに対する「不信感」と「怒り」が沸き上がり、大問題になるでしょう。

ここで,なるほどと思ったことは、実際に自分たちの健康に影響のないものだと数字で示されたとしても、そこが問題ではないということ。

科学技術の発展の問題は、突き詰めていけば、人々がどのような社会に住んでいきたいか、という人々の願いがあります。

リスクは、心理学でも学んできました。心理学は、あらゆる学問のベースとなるんじゃないですかね。

科学技術とはいえ、扱うのは「人」ですから。

 

 

 

公共哲学

少し前に、通信指導の添削されたものが届きました。

なんと、私は学生番号を、学部生の番号で出してしまっていました!

赤字で直されていました。

解答に対する指導、助言にはそのことは触れられず、提出したレポートの内容に関してだけでした ( レポートが無効にならず、よかった)。

今の時点での精一杯の解答を書いたつもりでしたので、どのような指導が書かれてあるかとてもある意味楽しみに待っていました。

結果としてはまずまずのようでした。課題に対する解答として、そんなに的外れにはなっていない、というような評価であると解釈しました。

公共哲学は、学んでいくとじつは私たちの生活に本当に身近なことに気がつかされます。

テストは、持ち込み不可の記述式。

多分自習型問題をベースに、自分なりの考えをまとめていくしかないかなと思っています。

どんな社会的な問題を取り上げようかと考えつつテキストを読んでいます。

 

 

思春期青年期の心理臨床

この科目も後半部分をまとめて聴講しました。

中高年の心理臨床と重なる部分が多く、ライフサイクルのなかで、それぞれがバラバラではないことを感じた、後半部分でした。

思春期青年期が疾風怒濤の時代であることは、だれもが経験することですが、それはその真っ只中にいる人たちにはわからないものです。

 

講師の大山先生がおっしゃっていた、この思春期青年期の心理臨床を学ぶ人たちとは、その時代をすでに終えた人たち、つまり大人といわれる人たちなのではないか、ということは、確かにそうかなと。

思春期青年期に経験したことは、記憶として正確に残ることが逆につらいことであり,それは、一つの「物語」として、大人として社会で生きるとき、つらいときや困難に陥ったときに、その「物語」を思い出す、そんな機会となるのが、この科目を学ぶ一つの意義なのかもしれないと述べられていました。

しかし、現代の若者の取り巻く環境は、たしかに便利になったけれどかなり厳しいように感じます。

自分の若いころの環境、インターネットやスマートフォンなど影も形もない時代と比較しても、そのえられる情報量は比べることはできません。

この講義のなかにも、まさに現代ならではの課題が盛りだくさんでした。

でも、同じ人間であるからには、思春期や青年期の悩みや通ってくる道筋はまったく違うとは思えません。

発達障害SNS、ひきこもりなど、いま現代に起きている課題がリアルに取り上げられた授業でした。

大山先生のやさしく、思いやりのこもった講義は心に残りました。

 

 

 

 

 

 

 

今朝の朝ラン

去年の5月から再開したランニング

久しぶりに再開して、結構続いている。

いつも早朝に、決まったコースをイヤホンをつけながら走っているが、今日は、途中で見知らぬおじさんと、短い間だったが、とても楽しく話をしながら走った。

そのおじさんは、かつて、フルマラソンはもちろん、100キロマラソン、海外のマラソンなどに出場経験があったそう。

真っ白な息を吐きつつ、すごいすごいと連発する私。

ホノルルマラソンより、ゴールドコーストのマラソンのほうがいいよって、とってもいい情報をもらった。

そしてなによりうれしかった言葉。

それは、年齢が高くなってから始めたほうが、継続するよ、ということ。

なぜか

それは、若いうちに無理をする(若いから無理ができてしまう) ことで、故障することが多いそう。

 

実際、おじさんも40代からマラソンを始めて、沢山の大会に出場したものの、やはり30年近く走ったことで、足を痛めてしまったそう。

むしろ、70代とか、60代くらいでゆっくり走るかんじで始めたほうが、そのあとずっと続けて走ることができるんだと。

もう、本当にうれしい言葉だった。

 

まずは、2月のハーフマラソンにむけて頑張ります♬

 

 

 

中高年の心理臨床

この科目も後半をまとめて視聴。

高齢者の認知症、文学と老い、そして死に関連する内容です。

自分の親とのことを重ね合わせて聞いていたので、ここでも教科書を確認程度に見るだけで、じっと耳を傾けていました。

 

特に、 文学作品から「認知症」や、「精神の病」そして「老い」を読み取ることが非常に新鮮でした。

 

ブレーメンの音楽隊、ドンキホーテや、リア王カラマーゾフの兄弟などの外国作品と、夏目漱石のこころや、行人といった作品のなかから、登場人物の老い、病(主に精神的な病) という切り口から読み解いたとき、実は、いま私たちが精神を病んでしまった人たちにどのように接することが大切なのか、が見えてくるというものです。

 

それぞれの作品の時代背景では、病に犯された人たちに対して、とても厳しい対応をすることが当たり前のようななかで、むしろ、今でいう、グループホームの役割をするものであったり、家族の有り様の大切さ、病に苦しむ人に対する変わらぬ尊敬の念や、ともに生きようとする周囲の人々が、どのような立場であっても受け入れようという社会を作ることが、大切であると、それぞれの物語を通じて感じられます。

 

文学作品で特に古典と呼ばれるものが、こんな切り口で読むことで現代の問題を生き生きと浮かび上がらせることができるんだと感動して聞いていました。

 

それぞれの作品の著者たちは、高齢化とともに起こりうるさまざまな問題の解決策をその当時から提案していたんですね。

 

そう考えると、人間が生きていく上で抱える問題、特に老いることと、病、そして死というものはずっと変わらず存在し続けるもので、時代が変わってもその本質は変わることがないとつくづく思います。