放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

試験勉強はなかなか大変です。

いよいよ、来週末が初めての単位認定試験です。

 

もう、ずっと休みの間は印刷教材を読んでいます。

ただ、黙読しているとぼーっとしてきてなにを読んでるのかわからなくなってしまうので、音読しつつ、内容を自分の言葉で置き換えながら、すこしづつ進んでいるので、結構全部読み通すのは時間がかかりました。

一応、一通り読み終え、過去問を解きつつ、ざっくりと頭にはいったかなあ、という段階です。とにかく、用語の定義がとても難解です。あまりにわからないので、私は、アホになってしまったんではないかと、ちょっと悲しくなりました。

しかし、です。あまりに用語の意味がわからなくて(普通の国語辞典とか、電子辞書とかひいてもわからない) ネットで検索してみました。

結果として、もっとはやくネット検索しておけばよかった、と思うくらい、具体的な説明もあるし、なんか、印刷教材の難解さは、本当に難しいんだとちょっとほっとしたくらいです。

しかし、この難解さを必死になって理解しようとしながら、繰り返し読み返したりするうちに、それらの言葉がからだに入ってくるような感覚を覚えることがあります。

なんとなく、に名前をつける

勉強とか、仕事とか、ある程度強制的に、自分としてはやりたくないけど、やらないかん、と思って、必死にかじりつき、そして、それが終わったとき、ものすごーく開放された気分になって、ただひたすら寝る、とか、なにか、ただひたすら、映画をみるとか、何時間もぼーっとする、とか、そんなことあると思います。

私もすごくそういう部分があって、集中はできるんだけど、どこかでより戻しみたいなものに襲われることがあります。

今回、教育学入門の中で、そのような衝動みたいなものには、ちゃんと名前がついていることがわかって、なんかとても賦におちたことがありました。

それは、有用性の原理から自由になること、です。

有用性の原理とはなにか。

なにかのため、になにかをおこなうこと、だそうですが、印刷教材では、子どもが大人に要求される行動は、こどもの意志を優先せず、むしろ、子どもが社会化していくこと、あるいは発達に必要だからという理由で要求されるもので、大人が決めているもの。

もちろん、大部分の子どもは大人にしたがって、そのなにかのために自分の意志を弱めたり、なくしていくことになるのだそうです。

けれど、そこで、子どもは、自分の中の生きる力を取り戻すために、無意識のうちに、無用で無意味な行動に走る場合が多々あると。

でもこれは、子どもだけでなく、大人にも十分に当てはまることだと思います。

このことを、なんとなく知ってはいたけど、こんなふうにきちんと定義があったんだと知ると、あらためて、大切な行為であったんだと、うれしくなってしまいます。

やはり、どんな行動にも理由があって、しかも、一見無駄に思える行動がじつは、生き生き生きていくための大切な行動だったなんて、つくづく人間のこころの仕組みの奥深さと不思議さを感じます。

遊びが必要というのも、ここでわかります。そして、反面、子どもが大人たちのいうことにひたすら、反抗もせず、従うということが、どういうことをもたらすか。

このことひとつとっても、大変な問題ですね。

大人であっても、自分のこころを置き去りにした生活をすることが、どういう結果をもたらすか、あらためて、考えてみる必要がありそうです。

後一週間、そしてその後の一週間後と、試験勉強は疲れますが、それは心地よい疲労感です。

 

 

いよいよ、来年早々です。

10月から始まった、放送大学での受講。

今年が押し迫って、いよいよ来年早々に単位認定試験です。そこで、10月からの放送大学の利用方法や、いくつかの決まりごと、試験などを経て、いままでの経過を振り返ってみたいです。

 

講義の受講方法

講義は主に、放送大学のキャンパスネットワークホームページからログインして、その資料室から、それぞれの科目を観たり聞いたりできるので、本当に便利です。

特に、スマートフォンでは、何回でも、たとえば通勤途中とか、買い物の途中にあるきながら聞くことができるので、本当にいいです。

机の上で、テキストを見ながら視聴していると、必ずといっていいほど寝てしまいます。字を追っていると聴く方がおろそかになるし、テキスト通りに進むわけでもない。

ところが、歩きながらとか、電車の中で外の風景をみながら講義を聞いていると、その講義を聞いている最中にぼんやりと見ていた風景などが、講義の内容とともに思い出すことができることに気がついたんです。(その風景との関連づけ)

これは、なにかを記憶するときにイメージを利用する方法があったなあ、といまさらながら思い出しつつ、それでも、細かいところは忘れてしまうことが多かったと自覚したのは、通信指導問題提出のとき。

この記憶に関しては、心理学概論の中の認知についての心理学(スキーマスクリプト、ものの学び方(ただの詰め込みでない))で学び、認知心理学とはまた違った学習理論(体験を通して学習するメカニズム)では、犬の訓練を通してわかることなどを学びました。これは、ちょっとわかりにくかったなあ。

ノートをとることの意味

これは、なかなか難しい問題でした。いまだに、どのようにノートを利用しようか、試行錯誤しています。

実際、机の前で聴きながらノートをとるというのは、たとえばほぼテキスト通りにすすめられる場合は、テキストに直接書き込むか、蛍光ペンでマークするなどしていても、ちょっと退屈してしまったりするもんです。

今回、心理学概論がテレビ視聴だったけど、テキスト以外の図や説明の部分が画面に示されたりして、それをノートにとるのは結構大変です。

それをすべきかどうかちょっと迷いました。でも、通信指導問題提出の問題にテレビ視聴をしていないとわからない部分もあり、やっぱり必要かもとは思っています。

他のラジオの場合も、テキストにはないお話でちょっとメモしておきたいというところはつい、テキストに書いちゃいました。

でも、ノートはただテキストを写すものではなく、自主問題を解いて、その該当する部分をテキストからまとめたりすることで、活用できるかなと思っています。

 

オープンキャンパスはやっぱり役立つ

放送大学は、入学試験はありませんが、私が選択した科目はどれもその内容は密度が濃く、テキストや講義を受けて、理解し、テストをうけられるまでになるにはそれなりに勉強が必要だと思い知りました。

私も科目選択とか、まず、どのように自分ですすめていくのか、大学側からはどれくらいのフォローがなされるのか、などなどとにかくわからないことばかりだったので、オープンキャンパスは絶対いかなきゃと思って、実際行ってみてよかったと思っています。

もちろん、入学してみて、そんなに心配しなくてもいいんだという部分はありますが、特に、一番最初に科目をなにを選択するか、いくつとるか、などは、本当に未知な部分です。

私の場合は、編入手続きをしたので、卒業まで必要な科目は、一年次からとる場合より半分で済みます。それでも、最初は欲張って、取ろうとも思いましたが、オープンキャンパスのときに、とにかく最初は少なめがいいと強くすすめられました。

後にクラス会(このシステムは愛知学習センター独自のものだそうです)で、一つ前のクラス会の方と、科目数の取りすぎの問題にふれてみえました。

大人になって、新たに学習をしようとするとき、これは自分でやろうと決めてやるから、結構やる気満々になってるんですよね。意気込みがあるというか。

ここのあたりも、オープンキャンパスで、よーく話をきいて、もちろん自分の不安に思っていることも相談し、よくよく考えてから科目選択をすることが必要だなあと。

私は4つ選びましたが、この数が私にとってはベストだったし、これらは、結構重複する部分もあって、別々で受講しても、お互いに関連しているので、予習になったり、復習になったりして、その点ではよかったかなと思っています。

 

情報収集の方法

入学式に始まって、単位認定試験まで、考えてみればわずか4カ月。

大学生活といっても、通信制の場合、なにかの活動に参加しないかぎり、一人で受講し、一人で課題を解いていって、試験をうけるという道筋です。

それでも、ほかの人は、どんな風に科目を選択しているのか、と思ったり、初めてであればすべてが初体験なので、戸惑うことばかりというのが正直なところ。

それに、次の科目を選択する場合、どんな基準で選択するといいのか、とか、その選択したい科目がけっこう難しくて、大変そうか、とか。

また、受講生のそれぞれの学ぶ目的、どんな資格を目指しているかなどを聞く機会があると、勉強するモチベーションがあがります。

私の場合、入学式で紹介されたサークルのうちの一つにさっそく参加。最初は見学という形でしたが、すぐ活動に参加させていただくことができました。サークルでは、自分と違う分野を学んでいる方々もみえるので、おもしろいですし、なによりびっくりしたのは、大学にも何度も再入学し、もう卒業だけが目的ではない、そんな学び方もあるんだと知ったことです。

そして、もう一つはクラス会の存在です。クラス会の参加は強制ではなく、まずは登録するかどうかを自分で決めます。そして、実際にクラス会の会合に出席する(これも参加できる人だけ)ことで、科目ごとにグループに振り分けられて、そのなかで、お互いを紹介します。もちろん、他のグループの方たちとも交流します。そのなかで、学級委員を選出し、またその方たちとの忘年会(時期的に)もあり、私も参加しました。

このクラス会では、ベテラン先輩学生のみなさんが自主的に参加していただけるので、そこで、また情報収集できます。つまり、縦横のつながりができます。

同期同士は、おたがいに不安な気持ちや、いまどうなっている、という話をできて、先輩には、今後はどんな科目選択が適切か、とか、試験のこと、単位のとり方などさまざまなことを聞くことができます。このあたりは、やっぱり実際に話してみたいとわかりません。

大学側からは、突然電話がかかってきて、提出物や、勉強はすすんでますか、という内容で親身に話して下さいますが、これも、最初のうちだけらしいです。

もちろん、勉強するのは自分ですが、その勉強するモチベーションを高めつづけ、そして自分で問題意識をもって、その問題を解決する方法を見つけること、自分が学んだことを社会に還元するんだという意識をもちつづけるには、やはりひととのつながりは欠かせないように思います。

このあたりは、苦手だな、と思う人もいるかもしれませんが、たとえば、会社や家庭、自分の友人たちとは、まったく異なる、人間関係があること、それが学びを通じてつながっている人たちであると、ちょっと生きることに新たな面が増える気がします。

大学の行事に参加してみること

愛知学習センターからは、「しりあい」という、機関紙が送られてきます。そのなかにもさまざまな情報が記載されています。また、キャンパスネットワークホームページを定期的にみることで、お知らせが更新されていますので、これをチェックすることが大切です。

そこで、行事として、たとえば公開講座、学習相談会、映画鑑賞会、学生講演会などなどがあります。まずは、参加できるものはできるだけ参加するようにしています。こまめに学習センターに行くことで、また気づくこともあります。図書館もまだ一回しか利用していないので、今後はもっと利用したいです。

 

ざっとまとめてみました。

放送大学入学は、とにかくわからないことばかりで、不安ばかりだったので、無我夢中だったというのが正直なところです。でも、これは入ってみないとわからないというのが本当のところだと思います。

私も、心理学を学ぶつもりで科目選択をしましたが、実際は、教育もともに学ぶことになっていて、この教育の分野がとてもおもしろいことに気がついたのです。こんなふうに、学ぶうちに、自分が思っていたことがどんどん変わっていくことも、おもしろいところです。

教育は、ある意味、その民族の文化、国の文化を伝えることであると知ったとき、これは大変重要なことなんじゃないのかと、いまさらながら、その重要性に気がつかされました。

これが、学ぶことのすばらしいことなんですね。

これからも、こんなふうにどんどん変わっていくことが、すごく楽しみでもあります。

自分の中で、課題もすこしづつ、生まれてきつつあります。それはまた、つぎにまとめてみたいです。

もうすぐ単位認定試験なので、お正月休みが終わったらすぐ試験勉強に取りかかるつもりです。記述式が一科目あるので、それも緊張ものです。

来年は、あらたな科目選択、手続きなどさまざまありますので、忘れないようにしたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめての面接授業と通信指導問題を発送

 初めてづくしの11月でした。

まず、初めての面接授業。

朝9時45分から開始なので、遅刻しないように、少し早めに大学に着く。

もちろん、私が受講する科目以外にも行われるので、それぞれの科目の教室が隣接し合っていて、まとまった数の人たちが、授業の開始前には集まってきます。

私が受講した科目では、席順は自由だったので、近視の私はやはり少し前のほうに座りました。

 

集中して聴けた理由

朝9時45分から、途中10分くらいの休憩と、昼休憩を除いて、16時35分まで、びっちり授業をうけました。あらかじめ、プリントが配布されると知らされていましたが、プリントの枚数などがわからなかったので、ノートを一冊用意していきました。

これが、結構役立ちました。プリントは数枚で、あとは、講師の講義とスライドなので、なるべく、ノートをとるようにしました。結構忙しくノートをとっていたので、つい、居眠り、なんてことも防ぐことができました。1限が85分なので、そりゃあ、最初は、緊張感もあって、背筋もピンとして、必死に聴く態勢でいますが、やっぱり油断すると、やっちゃいそうです。

結局、2日目の最後には、ノートは2冊目に突入していました。もっとも、なぐりがきだったり、あっちこっち、矢印や、ボールペンで書きなぐってたので、間違いも、横線で引っ張って書き直すなど、けっしてきれいなもんではないけど、手を動かすことは、いいことです。

 

チェック機能が徹底しているな

まず、毎時間ごとに面接授業成績評価簿というものが、回覧されます。これは遅刻なく毎回出席していたかどうかの確認だと思いますが、毎時間なので、ちょっとメンドウかも。でもこれもちゃんと定時に着席していたかどうかの確認ですから、仕方ないです。

そして、1限目の終わりのときに、いきなり、すこし小さめの紙に、授業の感想だったかなあ、(すでによく思い出せない)を書かされました。これは毎時間書かされるのかと、ちょっとびっくりしたんですが、最後の最終レポートを除いて、ここだけでした。

講師が、これをざっと読んでみえたようで、後の授業時間に、参考にされるつもりであったのか、どうかはわかりませんが、みなさんが書かれていたことなどを、少しずつ、紹介などされてました。

欠席や、退席、遅刻についても、さまざまなルールがあるので、確認事項がいくつかあります。でも、授業中は、私語もなく、みなさんが本当に集中していることがひしひしと伝わってきました。

 

まとめとして

授業内容は、まずは心理学の入門というところだったので、ごくごく、私たちの興味のあることから、でも、やはり、その中で使われる言葉はきちんと定義されたものであったり、興味本位のたとえば、人の心をつかむためには、ものでもなく、いままでの実験や知見から、わかることなどを基に講義されていました。

だから、つまらなかったというわけでもなく、むしろ、私がいま履修している、心理学概論、発達科学の先人たち、教育学入門、そして発達と心理をまなぶために、のおさらい的な面もあり、特に、発達科学の先人たちはとても興味深いので、授業で、心理学の歩みみたいなものが取り上げられた場面では、とてもよく頭に入ってきました。面接授業はやはり、ある程度、自分が履修しているものと重なったほうがいいんじゃないかな、と思ったほどです。

2日目の最後の講義の終わりのほうで、レポートを書いて提出をすることになっていました。(紙が配られます。)

テーマは、1日目にすでに聞いていたので、ちょっと下書きをしておきました。でも、書いてみると、なんかまとまらず、辻褄があわないなーとか。

とにかく、思いのたけをぶつけて、ちょうどA4の紙の表側にレポートを、そして裏側に授業の感想を簡単に書いておきました。

こうやってレポート書くのも何年ぶりかなーと思いつつ、しかし、後日、通信指導問題で、大変に苦労することを、まったく予想もせずに、感慨深く、提出しました。

 

通信指導問題に格闘する。

通信指導問題提出絶対忘れるな、とは、オープンキャンパスのときから、何度もしつこく、聞かされていました。(まだ入学もしていなかったのに、ですが)

白紙でもいいから、提出することがとにかく大事。これをださなければそもそも、単位認定試験をうけることができない、と。

白紙というのは大げさかと思いますが、それくらい、大切なものであることはわかっていたので、面接授業が終わった翌週、さっそく取りかかりました。

甘かった

ぱっと見て、問題数が少ないし、教育学入門を除いて、マークシート。選択問題だったら、まあ、ちゃっちゃと終わるかな、と思った私が甘かったです。

よくよく読んでみると、やはり、その問題の中身はかなり、難しい。しかも、テキストの中だけでなく、放送での内容も出題されている。そりゃあ、そうでしょう。あーあ、忘れている。で、だいたいこのあたりの授業でやってたんじゃないかと、見当をつけてインターネット放送で見直し。幸い、いくつか見つけることができたので、よかった。

最後に残った教育学入門のレポート提出問題。もう、何度も課題を読み直し、課題の主旨からはずれないように、書いていきましたが、難しかった。

じつは、この課題は、ブログにも私が思うことを少し書いていたんですよね。だから、おっと、思ったんですが、でも、レポートは、自分がこう思うってことについて、根拠を示さなきゃいけないし、テキストに記載されていることを、参照しながら、でも、丸写しじゃあ、いけないなあ、とか。

書きながら、すこしづつ、考えがまとまってはいったんですが、頭のすみっこで、にょきにょきっと問題への私なりの結論というか、みえそうでみえないような。

結局、昼から夕方までかかりました。

最後の最後まで

その日のうちに、郵便局から切手を貼ってだそうかと思い、その前に近くのコンビニでこのレポートのコピーをとっておこうと、コピーをして、なにげなく、書いたものを見直していて、あ、これはちょっと、書き直したい、という箇所に出くわしてしまったので、結局その日は出さず、家に持ち帰って、少し訂正。

仕事で、校正をやっているので、見直しの重要性は身に染みているつもりですが (もっとも仕事で、つい最近、そのミスをスルーしてしまって・・・)

ともあれ、翌日は無事に投函。やれやれ、です。しかし、精一杯やったあとの充実感と解放感は、うれしいものです。レポートについては、来年の1月ごろにコメントをいただけるようなので、楽しみですが、ちょっと怖い気もします。

 

半年はあっと言う間

1月といえば、もう、単位認定試験なんです。

10月からだから、実質4カ月くらいですかね。15回の放送授業だから、日数でいうと、15週、3カ月ちょっとですね。

いまが、ちょうど折り返し地点を少し過ぎたところですね。あと半分。今度は単位認定試験にむけて、この通信指導問題提出のおかげで、勉強のやり方をすこしつかめたような気がします。

明日は、第一回のクラス会です。今年の2学期に入学した人たちの集まりです。参加して、また、情報収集して、ほかの学習者のみなさんからお話をうかがってみるつもりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おもしろい、実験

放送大学では、勉強の仕方は個々人でさまざまですが、講義は面接授業以外は基本的には媒体を使ったものです。その他の活動として、ゼミやサークル活動、または、イベントや公開授業などさまざまです。

まだ心理学という分野を勉強しはじめたばかりの私でも、どうやら、心理学を学ぶということは、ただ単に、教科書を読んだり、テレビやラジオを聞いているだけではだめなんだと、うすうす感じはじめてはいました。

そこで、ある活動に参加することにしました。

その活動の中では、いつもおもしろい発見をします。(まだ、2回目ですが)

今回も、とてもユニークな実験をしました。その中で、私は偶然、自分のやっていくことが、ちょうど、

プロファイリング

ということにとても近いものなんだ、と気づきました。

 

その人になりきる

実験の詳細は、省きますが、あらかじめ、参加者はある決められたルールで、あるものを作ります。参加者はランダムにペアを組み、お互いにそのつくったものを交換します。

作られたものは、とても抽象的なもので、あるものを見たままというより、その印象を具現化するようにしてあります。(材料は、とっても簡単なもの、たとえば、紙粘土で形が作られていたり、クレヨンで絵が描かれていたり、とか)

で、実際にその人が作ったものを、当てるわけですが、そこには、もう一つ行動が加わります。

描かれた(作られた)ものが、どこにあるのか、ちょうど4カ所なんですが、その場所にいって、探して、また戻ってきて、ペアの方にその自分の予想したものを言って、あっているかどうか、答え合わせをする、というもの。

 

制限時間の中で、まったく想像もつかない中、限られた場所をみな、うろうろしたわけですが、だいたい、作られたものはもう、なんだかさっぱりわからない。

紙粘土を適当にこねて、なんか形になっているけど、いったいなんだろうと、本当に途方にくれてしまいました。

あちこち、ばらばらになっているわけですから、そのものの間には、移動手段が描かれています。

階段であったり、エレベータであったり。

そこで、ふと私は、ペアとなった方(その作品を作った方)を思い浮かべていました。

私とその方は、その日初対面です。お互い、少し会話を交わしており、しかも、この活動の少し前の時間にお会いしていて、なにを職業にしている方かもきいていました。

私は、いつのまにか、その方の服装やはいている靴、もっている荷物や、果ては、体つきとか、それらを思い浮かべ、そして、その人の思考を想像していました。

結局、一番最後に集合場所に戻り、みなさんに、迷子になったんじゃないかと、何だかんだ言われ、しかも、正解とはならなかったのですが、私的には、心理学を実感できた貴重な体験となりました。

 

犯罪と心理学

ちょうど、心理学概論の第6回目、犯罪についての心理学 に進んだところだったのでその中の、プロファイリングというものはどういうものなんだろう、と興味をもっていたときだったから、余計にそう感じたのかもしれません。

ここで、犯罪心理学とはなにか、という部分を引用すると、

犯罪心理学とは、「犯罪という現象に関するさまざまな問題について心理学的な方法論を用いて研究し、そこで得られた法則を司法や行政に生かしていく分野」であり、他の心理学分野と同様に、データに基づいた実証的な研究によって、犯罪にまつわる問題を究明、解決することを旨としている。

この犯罪心理学的が扱う領域として、テキストにはいくつかあげられています。

その中の捜査心理学の中で、代表的な研究の一つとして、プロファイリングがあげられています。

このプロファイリングに関しては、放送大学の主任講師からインタビューを受けて、授業内容を講義された、越智啓太先生の著書に詳しく書かれているようなので、さっそく、図書館で借りてきました。(★)

なので、私もまだ、テキスト上での知識のみなんですが、それでも、いまや、映画やテレビドラマでも(とくに事件捜査を扱う海外の映画やドラマで取り上げられます)見かけるし、プロファイリングという言葉は使ってなくても、いまや犯罪捜査にはかかせない手法となっているような気がします。

大切なのは、大変地味なことだけど、こつこつと、客観的なデータを収集すること、過去の事例と照らし合わせること、などなど。

ときには、ある超能力を持ち合わせた方のちからを借りて、とか、いろいろありますね。私もそういうものを否定するわけではないけれど、大方は、地道な捜査活動が主流となっているかと思います。

このプロファイリングがどういうものか、あらためて、参考文献を読んだり、そして、ドラマや映画の中でどんなふうに利用されているのかを、知りたいと思います。

越智啓太先生の著作

(★)犯罪捜査の心理学 プロファイリングで犯人に迫る(Dojin選書)

   犯罪捜査の心理学 凶悪犯の心理と行動に迫る プロファイリングの最先端

                          (新曜社

プロファイリングが取り入れられた映画として、羊たちの沈黙 が最初だったそうです。過去何回か観てますが、あらためてその点からもまた観てみたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教育学入門--公教育制度について

教育学入門の講義を聴き始めて、はや5回目の講義となりました。

教育学を学ぶとは、どういうことなんだろうと、ここまで聴き続けてきましたが、この5回目の、公教育制度に関する講義は、ちょっと考えさせられました。

ここまでは、教育についての基本的な知識と技術が述べられており、また、そこからさまざまなテーマに沿って、展開されているのですが、この6回目の講義では、公教育制度のゆらぎを取り上げています。

 

公教育とは、テキストによると、

重要な社会機能を担い、公共に開かれ、公共に提供される教育

と、記載されています。義務教育はその中心とされています。このなかには、日本では私立学校における教育も含まれるようです。

私がなるほどなあ、と思ったのは、この公教育が今日、ゆらいできているということ。

テキスト中で、あるいは講義中でも詳しく、それらの言葉の定義や、公教育のありかたについて述べられていますが、いま実際に不登校の問題、あるいは、今の学校制度に疑問を投げかけるようなことが起きていることが、必ずしも、(その不登校などが) まったく今日的な問題ではなく、すでに、それらについてもっと前から、この公教育のあり方について、疑問を呈する流れが出ていたということ。

 

不登校というと、不登校である子供に問題があるとして、なんとかして学校に行かせることだけが取り上げれがちです。でも、そもそも、その制度自体に問題がでてきているとしたら。

そもそもの学校の役割ってなに?

というところに行き着きます。テキストでも、社会と個人との関係について、とか、かつての公教育のあり方から、現代社会に求められる教育の役割など、とても多岐にわたって述べられています。

しかし、いま、学校に行きたくない子供たちが増えているということであれば、それは個人の問題というより、学校という制度の問題であるということが、なんかすっぼり抜けているような気がしました。

そして、この問題の難しさは、では、今の教育制度の代わりに、どんなことができるのか、ということでしょうね。

テキストの中では、たとえば、その一つの方法として、ホームスクーリングなどがあげられています。

学校へ通うこと。

このことは、子供たちの権利であるといいます。かつて、貧しさから教育をうけられなかった人たちがそれこそ数えきれないほどいたでしょう。

けれど、現代の社会の学校の役割、あるいは教育について考えると、学校を絶対的なものと決めつけることは、いかがなものかと。

そろそろ、本当に学校制度についてもっと真剣に議論すべきなのではないかなあ、と思わざるえません。

 

 

 

 

 

 

久しぶりの伊吹山登山

いつの頃だったかは思い出せないのですが、子供の頃に伊吹山に登ったような記憶があります。

そのとき、この登山がかなりきつかったという、ぼんやりとした感想をずっともっていました。

で、今回、冬がくる前にぜひ、登っておこうと思い立ち、実行しました。

 

日帰りの予定で、早朝家を出発し、夕方8時前には帰宅できました。

でも、想像しない事態に見舞われて、結構考えさせられる登山となりました。

 

登り始めて山頂まで

 交通は、名古屋駅までは、いつもの名鉄を利用、JR名古屋駅から、米原方面のJR快速で近江長岡駅へ着。近江長岡駅からは、登山口行きのバスにのって登山口へ。

 

バス停車所から登山口までは、歩いてほんの数分のところなので、そのあたりは便利です。(バスの本数が少ないので、時間は確認しなければなりません。)

 

お天気もよく、体調もよかったとは思いますが、1000メートルを超える山は、何十年ぶりということだったので、いま思えば、かなり緊張していたと思います。

 

地図を確認し、地図読みの練習をかねようとコンパスをもっていきましたが、 登山道はとても分かりやすくて、特に迷うことはないとは思います。

(それでも、私はなんと下山途中、2合目でとても広くて分かりやすいところで、下山道を間違えてしまいました。そこは山道でもなく、お寺があって、行き止まりになっているので、すぐ引き返しました。ちょっと恥ずかしかったです。)

 

地図も確認しながら、出発前に家でコースタイムをガイドブックをみながら予測していったので、実際はどれだけかかったかを、記録していきました。

山頂に向かうほどに、風が強くなり、かなり開けた道ですが、だんだん道幅がせまく、石もごろごろしているのが、多くなってきました。

5合目から、登りも急になってきて、ジグザグコースをひたすら登ります。

石の大きいのや、ごろごろしているので、緊張する場面もあります。このあたりでは、早く登ってしまいたいという焦りみたいなものが出てきて、ろくに休憩をとりませんでした。

(いま考えると、このことが下山の際のトラブルの原因になったのではないか、と思うところです。)

 

結構長い登りですが、とにかく景色はすばらしく、時々振り返っては、深呼吸と、景色を眺めて感嘆していました。

時期的には、登山には絶好の日だったので、登山する方々も多く、家族連れも多かったし、若い方たちなど、楽しそうにのぼっているんですが、なかにはもちろん、黙々と登ってみえる方々もみえます。私は後ろから足音が近づいてくると、焦ってしまったり、邪魔にならないだろうかと、つい、止まって譲ってしまいます。このあたりが、人気のある山だと、ちょっとめんどうな部分かもしれません。人が多いということは、道迷いする可能性は低いけど、気を使ってしまうことが、どうもなあ、と。

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ススキがとってもきれいでした。

 

頂上から、下山へ

山頂にたどり着き、その風のつよさにびっくり。あわてて、防寒がわりにレインウェアの上着を羽織って、体を冷やさないようにしました。そしてちょっとぐるっと回って、景色を観ることにしたんですが、とにかく、風がつよい。

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風が強かったです。

 

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 頂上です。

 

とにかく、風を遮る場所もないし、用意したおにぎりを、あわてて食べて、早々に下山することにしました。

下山は登ってきた道をまた、戻るということで、結構きつい登りだっただけに、下りにはまた緊張の連続でした。

しばらく、そのような下りがつづいたあと、あとにきた若い男の人たちに先を譲って、自分もそのあとをつづいて歩き始めたとき、なにげなく、しりもちをついてしまったのです。そんなにべたっとしりもちをついたわけではなかったのですが、あっと思って、立ち上がろうとしたとき、太股あたりが、びーんと張ってしまったのです。

そう、脚がつってしまったのです。

なんとか立ち上がることはできたんですが、こわばってしまい、動かすといたくて、ちょっと脇によって、屈伸などをしたんですが、いたくて。

それと同時に、恐怖心がちょっともたげてきました。

このまま歩けなくなったら、どうしよう。

けど、すぐにそんな心を打ち消し、大丈夫と言い聞かせ、少し休憩。

あとからきた、小さい男の子をつれたお母さんから、大丈夫ですかと、声をかけられました。なんか、とてもうれしくて、勇気をもらえたような。

少し痛みが納まった頃合いを見計らって、そろそろと動き出しました。

まだ痛いんですが、とにかく、痛みの周期みたいなものを考えながら、あと、持ち上げると痛みがくるので、あまり持ち上げないように、下りはじめました。

でも、今度は、脚が重くなり、ふらついたり。

だましだまし、5合目まではゆっくりと下っていくことができました。

反省と、今後のために

その後は、痛みも収まり、5合目で休憩後、ゆっくりと順調に下っていくことができました。気がついたら、水分を本当に摂取していなくて、この脚の不調のあとは、こまめにとるようにして、3合目での自販機では、アクエリアスを買って飲みました。

時間はほぼ、コースタイム通りでした。でも、登りは、コースタイムよりも早く目的ポイントに到達していたので、このあたりで、無理をしていたのかなあ、と反省材料にもなりました。

ガイドブックのコースタイムは、休憩時間をいれていないわけですから、単独で登山するときは、こういう、休憩をいつ、どれくらいとるか、そして、全体の予定をきちんと守ることが、絶対必要だと、身をもって経験させられました。

道迷いとか、装備とか、そういうことも大切だけど、自分の体のこと、特に水分補給や休憩のとり方の大切さなど、本当に勉強になった登山となりました。

3時には下山したのですが、バスは4時5分なので、バス停で座ってもってきた文庫本をよんで休むことにしました。駅までは4㎞くらいで、1時間くらいで歩けるかなとも思ったんですが、また無理をして脚がつってしまってはいけない、と思ったからです。

 

JR近江長岡駅では、電車を待ちながら、久しぶりの伊吹山の懐で良い勉強をさせてもらったことを感謝しました。自分の体とよく向き合って、また、いつか、来させていただくことを胸に家路につきました。

実行することで、課題を見つけて、またそこから、計画をして、実行すること。

どんなことでも、当てはまることだと思います。

うまくいくかどうかはやってみないとわからない。だからこそ、行動とその反省というサイクルは、ぜひいろんなことにも応用したいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

普通ってなんだろう

母が認知症と診断されて、早一年半が過ぎようとしています。

診断されてから、今日まで振り返ってみると、認知症と診断された本人よりも、家族である私たちの心が劇的に変化していったように思います。

よく、重大な病気などを告げられたときにその本人がたどる、思考経過として、

その現実を受け入れられず、しばらく、まずは呆然自失となり、やがて悲しみから怒りになり、徐々にそれらを受け入れる状態になっていく。

という事がいわれています。

母の場合、おそらく、多分数年単位で、すこしづつ、母自身がなにか変だと思っていたようですが、その変化は本当にゆっくりで、同居していた弟も、たまにみせる、奇行(あとから弟に聞いて、そんなこともあったのかとびっくりさせられたことなど)も加齢のせいだと思っていたくらいです。

本人は、すでに認知症という言葉さえ理解できないと思いますが、私たち子供の立場からすれば、母親が認知症であると告げられたときのショックは、かなりのものでした。

そのショックは、想像以上に深く、私の心に広がり、そして、いま考えると、これをきっかけに、さまざまな行動に結びついていきました。

この診断をうけた後、私が、絶望してはいられないと、がむしゃらに動き回り、そして情報を集め、去年診断をうけたときには、絶望的だった(いくつか見学したのですが、ものすごく嫌がりました)デイサービスについても、今年の6月から、母にとって利用しやすい事業所がみつかり、通所を始めて半年近くになろうとしていることが、なにか夢のようです。

そしてなにより、私自身が、このブログのテーマである、放送大学の門をたたき、また、母の病のことから、より私自身を振り返るきっかけとなったことがとても不思議な気がします。

そんなこんなで、デイサービスも奇跡的に週一回行くようになったんですが、問題はお風呂にはいらないこと。

母にとって、すでに自宅のお風呂に入るためのお湯の張り方などもわからなくなっているので、一人では無理。デイでもお風呂ははいれるんですが、職員の方が毎回誘ってくださるんだけど、拒否しつづけているようです。

同居しているわけではないので、毎晩、私がついているわけにもいかず、はて、どうしようかなと思っていたのですが、ちょうどデイが終わるころに、母を近くのお風呂屋さんに連れて行き、私も一緒に入って、体を洗ってあげようと、思い立ちました。そこで、夕食も済ませれば一石二鳥だし。

弟は、やはり、ずっとお風呂にはいらないお母さんには、ちょっと困ったという感じだったので(このあたりは異性の親の面倒が大変なところです)下着の管理や、着替えも手伝える、同性の私が一番やりやすいから、さっそくこのデイが始まると同時に、このお風呂通いが始まりました。

お風呂にはいらないといっても、お風呂自体が嫌いになったわけではないんです。

もともと、ものすごくきれい好きな母で、家の中はいまでもきれいに片づいているんですが、自分のことになると、面倒になってくることと、やはり手順がわからなくなるんですね。

だから、一緒に私がお風呂にはいるとなると、さっさと自分も服を脱いで、さっさと入ります。もちろん、この間、私はすべて2人分の着替えを用意し、タオルもすべて用意するわけで、女性風呂のロッカー室で、常に声をかけつつ、どっかへいかないかと、神経を尖らせながら、私も素早く服を脱いで、タオルをもたせ、入ります。

ただ、母の行動は時に、周りには奇異にみえることがやはりあると思います。

このお風呂屋さんは、昔からあるところで、常連さんのような方々がきているようで、中には、すでに自分が使うロッカーの場所まできまっているような方もみえます。

そういう方々から、なんか親が妙な行動をとるなあと、思われていることもあると思います。(同じことを繰り返し話している、服の脱ぎ方や、着方をいちいち教えている、とにかく、たえず声をかけている、などなど)

実際、口に出して、指摘されたこともありました。別にその方に母がなにかを言ったとか、そういうわけではないんですが、(母に向かって)おかしいひとね、みたいな言い方をされました。(それは、母が靴下を履く際に、つい床に座って履いたいたところ、髪の毛が床にたくさん落ちていたところだったので、そんなところに座って履くなんてみたいな言い方でした)

母はもちろん、そんな言葉を笑いながら投げかけたその人を、完全に無視していましたが、私は、とても腹が立ってしまいました。が、そこは冷静に、髪の毛が落ちているからあとから係の方にいっておきます、とかなんとか、いって、そそくさと身支度をし、母を促して、その場をあとにしました。(私はかなりの近視なので、眼鏡がないと、床に髪の毛がたくさん落ちているかどうか、見えなかったのがくやしいですが)

最近、新聞の投書欄でも、たとえば、身体の障害がある人を、笑ったり、または、どなったりして、威嚇するなどを行う人たちが存在することを指摘するものがあり、信じられない、と思っていましたが、実際自分自身ではないにしろ、身内がその対象になるという経験をすると、心が冷えるような思いをするものだと、考えさせられました。

私たちは、当たり前にできることには、その当たり前が絶対であり、それができない人たちは、除外すべきものだとか、排除するべきだと、どこから思ってしまうのだろう。

当たり前、普通ってなんだろうって。

でも、母が、この認知症ではなかった場合、やはり、このような場面では、眉をしかめていたかもしれない。

このあたりは、とても冷静に考えると、私が学び始めた心理学の中での研究したいテーマがみつかるかもしれない。

自分の経験が、一つなにかを生み出すきっかけになると信じることで、こんなことも目を背けず、課題として、これからも考えていきたいです。