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放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

普通ってなんだろう

母とのこと

母が認知症と診断されて、早一年半が過ぎようとしています。

診断されてから、今日まで振り返ってみると、認知症と診断された本人よりも、家族である私たちの心が劇的に変化していったように思います。

よく、重大な病気などを告げられたときにその本人がたどる、思考経過として、

その現実を受け入れられず、しばらく、まずは呆然自失となり、やがて悲しみから怒りになり、徐々にそれらを受け入れる状態になっていく。

という事がいわれています。

母の場合、おそらく、多分数年単位で、すこしづつ、母自身がなにか変だと思っていたようですが、その変化は本当にゆっくりで、同居していた弟も、たまにみせる、奇行(あとから弟に聞いて、そんなこともあったのかとびっくりさせられたことなど)も加齢のせいだと思っていたくらいです。

本人は、すでに認知症という言葉さえ理解できないと思いますが、私たち子供の立場からすれば、母親が認知症であると告げられたときのショックは、かなりのものでした。

そのショックは、想像以上に深く、私の心に広がり、そして、いま考えると、これをきっかけに、さまざまな行動に結びついていきました。

この診断をうけた後、私が、絶望してはいられないと、がむしゃらに動き回り、そして情報を集め、去年診断をうけたときには、絶望的だった(いくつか見学したのですが、ものすごく嫌がりました)デイサービスについても、今年の6月から、母にとって利用しやすい事業所がみつかり、通所を始めて半年近くになろうとしていることが、なにか夢のようです。

そしてなにより、私自身が、このブログのテーマである、放送大学の門をたたき、また、母の病のことから、より私自身を振り返るきっかけとなったことがとても不思議な気がします。

そんなこんなで、デイサービスも奇跡的に週一回行くようになったんですが、問題はお風呂にはいらないこと。

母にとって、すでに自宅のお風呂に入るためのお湯の張り方などもわからなくなっているので、一人では無理。デイでもお風呂ははいれるんですが、職員の方が毎回誘ってくださるんだけど、拒否しつづけているようです。

同居しているわけではないので、毎晩、私がついているわけにもいかず、はて、どうしようかなと思っていたのですが、ちょうどデイが終わるころに、母を近くのお風呂屋さんに連れて行き、私も一緒に入って、体を洗ってあげようと、思い立ちました。そこで、夕食も済ませれば一石二鳥だし。

弟は、やはり、ずっとお風呂にはいらないお母さんには、ちょっと困ったという感じだったので(このあたりは異性の親の面倒が大変なところです)下着の管理や、着替えも手伝える、同性の私が一番やりやすいから、さっそくこのデイが始まると同時に、このお風呂通いが始まりました。

お風呂にはいらないといっても、お風呂自体が嫌いになったわけではないんです。

もともと、ものすごくきれい好きな母で、家の中はいまでもきれいに片づいているんですが、自分のことになると、面倒になってくることと、やはり手順がわからなくなるんですね。

だから、一緒に私がお風呂にはいるとなると、さっさと自分も服を脱いで、さっさと入ります。もちろん、この間、私はすべて2人分の着替えを用意し、タオルもすべて用意するわけで、女性風呂のロッカー室で、常に声をかけつつ、どっかへいかないかと、神経を尖らせながら、私も素早く服を脱いで、タオルをもたせ、入ります。

ただ、母の行動は時に、周りには奇異にみえることがやはりあると思います。

このお風呂屋さんは、昔からあるところで、常連さんのような方々がきているようで、中には、すでに自分が使うロッカーの場所まできまっているような方もみえます。

そういう方々から、なんか親が妙な行動をとるなあと、思われていることもあると思います。(同じことを繰り返し話している、服の脱ぎ方や、着方をいちいち教えている、とにかく、たえず声をかけている、などなど)

実際、口に出して、指摘されたこともありました。別にその方に母がなにかを言ったとか、そういうわけではないんですが、(母に向かって)おかしいひとね、みたいな言い方をされました。(それは、母が靴下を履く際に、つい床に座って履いたいたところ、髪の毛が床にたくさん落ちていたところだったので、そんなところに座って履くなんてみたいな言い方でした)

母はもちろん、そんな言葉を笑いながら投げかけたその人を、完全に無視していましたが、私は、とても腹が立ってしまいました。が、そこは冷静に、髪の毛が落ちているからあとから係の方にいっておきます、とかなんとか、いって、そそくさと身支度をし、母を促して、その場をあとにしました。(私はかなりの近視なので、眼鏡がないと、床に髪の毛がたくさん落ちているかどうか、見えなかったのがくやしいですが)

最近、新聞の投書欄でも、たとえば、身体の障害がある人を、笑ったり、または、どなったりして、威嚇するなどを行う人たちが存在することを指摘するものがあり、信じられない、と思っていましたが、実際自分自身ではないにしろ、身内がその対象になるという経験をすると、心が冷えるような思いをするものだと、考えさせられました。

私たちは、当たり前にできることには、その当たり前が絶対であり、それができない人たちは、除外すべきものだとか、排除するべきだと、どこから思ってしまうのだろう。

当たり前、普通ってなんだろうって。

でも、母が、この認知症ではなかった場合、やはり、このような場面では、眉をしかめていたかもしれない。

このあたりは、とても冷静に考えると、私が学び始めた心理学の中での研究したいテーマがみつかるかもしれない。

自分の経験が、一つなにかを生み出すきっかけになると信じることで、こんなことも目を背けず、課題として、これからも考えていきたいです。