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放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

教育学入門--公教育制度について

教育学入門の講義を聴き始めて、はや5回目の講義となりました。

教育学を学ぶとは、どういうことなんだろうと、ここまで聴き続けてきましたが、この5回目の、公教育制度に関する講義は、ちょっと考えさせられました。

ここまでは、教育についての基本的な知識と技術が述べられており、また、そこからさまざまなテーマに沿って、展開されているのですが、この6回目の講義では、公教育制度のゆらぎを取り上げています。

 

公教育とは、テキストによると、

重要な社会機能を担い、公共に開かれ、公共に提供される教育

と、記載されています。義務教育はその中心とされています。このなかには、日本では私立学校における教育も含まれるようです。

私がなるほどなあ、と思ったのは、この公教育が今日、ゆらいできているということ。

テキスト中で、あるいは講義中でも詳しく、それらの言葉の定義や、公教育のありかたについて述べられていますが、いま実際に不登校の問題、あるいは、今の学校制度に疑問を投げかけるようなことが起きていることが、必ずしも、(その不登校などが) まったく今日的な問題ではなく、すでに、それらについてもっと前から、この公教育のあり方について、疑問を呈する流れが出ていたということ。

 

不登校というと、不登校である子供に問題があるとして、なんとかして学校に行かせることだけが取り上げれがちです。でも、そもそも、その制度自体に問題がでてきているとしたら。

そもそもの学校の役割ってなに?

というところに行き着きます。テキストでも、社会と個人との関係について、とか、かつての公教育のあり方から、現代社会に求められる教育の役割など、とても多岐にわたって述べられています。

しかし、いま、学校に行きたくない子供たちが増えているということであれば、それは個人の問題というより、学校という制度の問題であるということが、なんかすっぼり抜けているような気がしました。

そして、この問題の難しさは、では、今の教育制度の代わりに、どんなことができるのか、ということでしょうね。

テキストの中では、たとえば、その一つの方法として、ホームスクーリングなどがあげられています。

学校へ通うこと。

このことは、子供たちの権利であるといいます。かつて、貧しさから教育をうけられなかった人たちがそれこそ数えきれないほどいたでしょう。

けれど、現代の社会の学校の役割、あるいは教育について考えると、学校を絶対的なものと決めつけることは、いかがなものかと。

そろそろ、本当に学校制度についてもっと真剣に議論すべきなのではないかなあ、と思わざるえません。