放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学  ティモシー・ウィルソン著

やっと読了した本 「自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学」。
 
これから、卒業研究に向かって文献を参照することが必須になってきますが、まだ全然なれていません。
 
ただ、本を読んで、自分の感想を述べる時にそれがどれを参照にしているのかをきちんと紐づけすることが必要なので、今回は練習のつもりです。
 
ちょっと自分の考えも入っていますが、簡単にまとめることができない、奥深い本ですし、まだ無意識について様々な知見もたくさんあることでしょう。私はやっと入り口から覗いているような感じですが、感想とともに、すこしでも自分なりのわかったことをまとめてみました。
 
1. 自分を知るということの難しさ
 1-1  私自身のささやかなこだわり
私は、小さい頃から、祖母に連れられ、お寺などにお参りに連れて行ってもらいました。
 
そこでは、主に僧侶の方のお話しや、おかじと称して、数珠で背中や頭をごりごりやってもらいながら、お経を唱えて、お参りしていたものです。
 
さまざまなお地蔵さんに手を合わせたり、いろんな教えをなんとなく聞いていましたが、かといって、それほど信仰にのめり込むことなく、ただ、なにか自分の両親や祖母や祖父たちよりももっと大きな存在は感じていたように思います。なにかに守られている、という感覚は、それはそれで小さい頃には安心感が与えられていたのでしょう。
 
やがて、中学生、高校生になっていったとき、素朴なそれらの信仰に疑問をもつようになります。
 
だいたい、なぜ、いくつもの宗教があって、みんなそれぞればらばらなことをいうのだろう。
人が幸せになる方法とか、死んだら行く場所が、宗教によってちがうなんておかしいじゃないか。
 
人間の作り上げたものに、なぜ人は救いを求め、また、様々な問題に巻き込まれ、苦しむのか。
 
そんな小難しいことを考えて、一人で悩んでもそれは答えがでるわけでもなく、もやもやとしたまま、時は経っていきました。
 
1-2  選択の動機と無意識
今回、私は放送大学で心理学を学びたいと思ったのは、その選択について決定的な動機があったわけではありません。
 
本当に、これからの私の人生の後半戦、どうやって生きていこうか、と考えたとき、大好きな本をたくさん読む理由ができるから、とか、ほんとうになんとなく、です。
 
そのなかの一つに、自分というものをもっと知りたい、ということもありました。
が、それはあくまで、こじつけのようなものだと思っていました。
 
しかし、今回、社会心理学のテキスト、第9章で取り上げられた「自分を知り、自分を変える ティモシー・ウィルソン著」は、私がかねてからとても興味をもっていた、「無意識」を取り上げていたことなど、まさに、ページ一枚ずつめくるのが惜しいぐらい、じっくりと読み、そして多分放送大学の心理学を学ぶ機会がなければ、このような本にもめぐり合うことができなかった、と思うと、私の決断はまちがっていなかった、と心から思いました。
 
ここで、私はふと、自分が、(まさに意識していない状態)、なにかを選択する場合、そこに、潜在的な意識、つまり無意識が働いているとしたら、この選択は、私の無意識がそうさせたのでしょうか。
 
 
ただ、この本にもあるように、
 
適応的無意識とは(ひょっとしたら、熟練した心理療法家の手助けを借りて)良い自伝の作者となることによって推論されなければならないものであって、抑圧を取り除いたり、意識下に煮立つ大鍋を覗きみることから推論されるものではない。 (P286) *1
 
とあるように、"無意識"を覗き見た結果というわけではないようです。
 
この本自体は、今回私が学んだ社会心理学の教科書に書かれているように、
 
本書は2つの側面を持っている。一つは、一般向けに自己啓発書としての側面、そしてもう一つは社会心理学における最新知見を知らせる平易な学術書としての側面である。 P138 *2
 
であり、読みやすいのですが、それは私がここまで学んだ心理学の基礎的な知識が役に立っていることを実感します。
 
すなわち、それぞれの仮説は、実験と、それらのデータの上で一つ一つ検証され、積み上げられているものであり、その経過が大切であり、安易に結論に飛びついたり、あるいは、そのデータの変数の相関も大切な要素となってきます。それらのことは、心理学実験や、心理学の基礎的な学びの中で、これらの本を読むことに役立っています。
 
このような背景をふまえ、私の意思決定への、自分勝手で安易な理由づけ、ここでは、自分の生い立ちから考えましたが、そんな簡単なものではないようです。
 
私がこだわってきたことと、今の自分の有り様が、果たして関連しているのかどうか。
 
やはり、自分を知ることは大変難しいようです。
 

2.無意識とは

本の中では、無意識は、

 

無意識はまた、それ自身の心や意志をもつ、単一の実体でもない。むしろ人間がもつ、時とともに進化してきた、意識の外で働く一連のモジュールなのである。*3

 

とあります。

 

そして、この本の中では適応的無意識という言葉がキーワードとなっています。

 

適応的無意識の現代的な考え方では、判断、感情、動機などの心の興味深い働きの多くが抑圧のためではなく、効率性という理由から、意識の外で起こる、心は低水準の処理(たとえば知覚過程)が意識に到達しないようになっているだけではなく、多くの高次の心理過程や状態もアクセスできないように設計されているのである。*4

 

なにか、とても機械的で、システマティックな感じです。

3.フロイトの無意識

無意識というと、フロイトを思い浮かべてしまいますが、フロイトのいう無意識は、ここでは単に注意を向けるだけで簡単に意識化できるものと、さらにもっと重要なものとして、

 

心理的苦痛の源となっているために意識の外に追いやられている、原初的な幼児期の思考の巨大な貯蔵庫があること *5

 

とあり、このフロイトの無意識のとらえ方はあまりに限定されていた、と述べられています。

 

適応的無意識がシステマティックな感じがしたのは、フロイトの無意識のほうがより知られていて、なんかどろどろしたものであると印象づけられていた (少なくとも私にとっては) かもしれません。

 

 

 

 

4.適応的無意識とは

ここで、適応的無意識について、もう一つ、

 

 

「適応的無意識」という用語は、非意識的な思考が進化による適応であることを伝えようと意図したものである。環境を即座にそして非意識的に評価し、明確化し、解釈し、行動を開始させるという能力は生存に非常に有利なため、進化的選択がなされたのである。*6

 

とあります。

 

ここでおもしろいのは、教科書にもあったのですが、

無意識的過程が進化的適応の産物である

*7

 

ということをつたえていることです。

 

 

心理学もいろんな分野がありますが、身体的な進化とともに心理的特性も進化的適応の産物という、進化心理学もまたおもしろいですし、さらにこれから、心も進化しつづけるということが考えられると思います。

 

 

 

5.自分をコントロールするということ

たいてい、私たちは自分のことをある程度コントロールできているような気分になっているけれど、実はそうではないということを、本を読みながら、だんだんとわかってきます。

 

ちょっとしたハプニングでは、すぐ気が動転したり、もっともいやだな、と思うことは、自動的になにかを判断していると、ふと自覚してしまうことです(とくに偏見など) 。

 

ここでも、

 

自動思考のもう一つの例は、他の人びとをカテゴリー化し、ステレオタイプ視する傾向である。*8

 

とありますが、セクハラ問題や、性的マイノリティー問題、その他それこそ性別や、職業など様々なことから、自動的に他の人をカテゴリー化している自分がいます。

 

難しいのは、自覚することができればいいのですが、たとえば習慣的なことは「適応的無意識」によるものであり、直接アクセスできない、となっています。

 

なので、たとえば、表面的にはそのような偏見を一切みせない人が、実はかなりの差別的なものの見方をしているということもあり、本人も自覚していない場合があります。

 

これは、意識的自己と無意識的自己とが調和していない例となるようですが、ほとんど研究がないようです。

 

 

 

 

 

6.自分を知ることと、自己洞察

自分自身の性格をわりと正確に当ててみせる、なんてことはできるものでしょうか。

 

案外思い込んでいることはありそうです。

 

適応的無意識の観点からいうと、

 

しかし、もっと簡単明瞭な説明がある。人びとの習慣的な傾性、特性、気質の多くは、適応的無意識によるものであって、直接アクセスできないのだ。

結果的に人は、両親、文化、そして自分がこうありたいと思う考えなどの他の源泉から、自分の性格に関する理論を作り上げざるを得ない。*9

 

だから、自分が思っている自分の性格と、外からみる性格とは異なることはごくあることだろうと。

 

でも、私たちは、自分がどんな性格なんだろうか、ということは自分を知りたい主要なことの一つです。

 

自分を知ることの手段として、いま、いろいろ方法があります。

本文では、内観と自己洞察について述べられていますが、私は、この二つはほぼ同義のことかなあ、と解釈し、

 

自己洞察については、

 

目を外に、自分の行動と他の人びとがそれにどう反応するかに向けることによって、そして良い物語を発見することによって、私達の隠された心の性質を推し量るのが良いことが多い。

私達は本来、みずからの行動と感情から意味ある効果的な物語を引き出す、人生の伝記作家でなければならない。良い自己物語の著者になる最良の方法は、隠された感情と動機を発見しようと無益な内観にひたることでは必ずしもない。*10

 

と述べられており、内観については、

 

内観はそれ自体、ストーリーを作る作業でもある。伝記にかかわる多くの事実は、直接観察するというよりも、推測しなければならない。作り上げるという作業は、動機に対する即席の内観から長期にわたる心理療法にいたるまで、すべての水準で生じる。内観は、懐中電灯や考古学ではなく、限られた情報にもとづいて、自伝を書くこととみなすのが最もよい*11

 

と述べられています。

 

内観は自分の本当になにかを探る、というより、物語をつくるということである、というのはとてもおもしろいです。

 

 

 

7.より、自分を知る方法とよりよい自分を目指す

適応的無意識が、ほぼ、のぞくことができないものであり、自分の意識の力ではどうすることもできないものなのか、この本のなかではさまざまな試みがなされてきました。

 

現代社会では、情報があふれ、自分をみつめるというより、外部情報に翻弄され、たえず、外の情報をチェックするような日常生活に私たちは生きています。

 

けれど、マインドフルネスという、一種の自己をみつめる、もっと自分の心に向き合うことが大切なのではないか、という考え、方法が広がっているように思います。

 

では、ただ、やみくもに、自分の内観を探ることができるのかどうか、この本でも述べられているように、それはおそらく、限界があるのではないかということが推論できます。

 

では、どうするのがいいのか。

 

私が読み取ったものは、

 

自己の内観と、外部情報の利用、そして行動を組み合わせることです。

 

自己の内観は、ただ、頭のなかで反芻したり、考えたりするだけでなく、それを筆記することです。これは、現代ならさまざまなPC上のエディタでもいいし、スマートフォンなら、アプリでもいい。

これは、本書にも引用されており、いま、私が読んでいる 「オープンニングアップ  秘密の告白と心身の健康  JWペネベーカー著」にも書かれていることですが、筆記することのすばらしい、心身に与える影響について述べられています。(これも、社会心理学の授業から知ったもので、感動しながら読んでいます)

 

外部情報とは、心理科学を学ぶことや、他者の目を通して自分を知ること(心理療法など)。

 

もちろん、ここでもウィルソンは、他者の目がかならずしも、正しいとは限らないし、たとえば、それを知ったとき、傷つくこともあるかもしれないし、知らない方がよかったと思うこともあるかもしれません。

 

ただ、

 

他の人びとが自分とは非常に異なる見方をしているときには、(たとえば、他の人からみて、その人にはあまりにも不適切だと思う職業などを選択しようとするとき) とりわけ、そういえる。そういうときには、すくなくとも他の人びとの見方を考慮にいれるべきであろう。自分の能力を他の人びとの見方よりも少しだけ肯定的にみることにはほとんど害はないけれども、ギャップが大きくなれば問題が生じる。*12

 

としています。

 

そして、最後には、じぶんの行動に焦点を当てます。

 

自分のすることを注意深く観察することで、私たちは自分自身について多くのことを学ぶことができる。加えて、もし私たちが自分の適応的無意識のどこかを変えたいとたら、そうなりたい人のように意識的に振る舞ってみるのが良いきっかけになる。*13

とあります。

 

ここに、意識的に振る舞うとありますが、適応的無意識が、意識的な行動で変わるかもしれない、というのはとても希望がもてることです。

 

ただ、どんなモデルをとりいれたらいいのでしょうか。

 

自分が理想とするモデルを見つけることは、簡単なようで、難しく思います。上でも述べられているように、あまりに自分が理想としている現実と、自分自身の現状とがギャップが大きいことだと、それはかないそうにありません。

 

ここでは、まず、自分の行動を観察することが大切になってきますが、本文ではそこから派生するさまざまな問題も述べられています。

 

しかし、話は込み入っている。つまり、自分の行動から感情を推論するという自己知覚過程に、心のどちらの部分が関わっているのかという難問がある。・・・適応的無意識もまた、意識に気づかれないうちに行動から推論しているかもしれないことも事実である。実際、適応的無意識の主要な役割の一つは、自分自身と社会的世界の性質を推論することである。*14

 

 

とても、こうすれば、こうなる、というものではないことが、さまざまな実験などから述べられていますが、希望もあります。

 

この行動について、さまざまな難しさはあるけれど、

 

 

アリストテレスは、「まず(徳を)おこなうことによってそれが我がものとなる。・・・成すことによって正しい人となり、節制によって節制ある人となり、勇敢な行為によって勇敢な人となる」と示唆した。ウィリアムジェームズも同じように助言している。「あなたの身につけたいと願う習慣に向けて、不退転の決意で、経験しうる限りの情動の駆り立てる力を用いて、それを行為する最初の機会をとらえなさい。」

言い換えれば、非意識的な傾向を変化させる第一歩は、行動を変えることである。非意識的なレベルで偏見をもっているのではないかと心配な人は、可能な限りいつも、偏見のない方法で行動を尽くすことができるだろう。そうすることで、二つの方法で、自動的レベルの変化を導き得る。

第一に、先に述べた自己知覚過程にしたがって、行動から非意識的に、自分は偏見のない人であると推論する機会が得られる。

すなわちそれは、態度と感情を推論するための新しい「データ」を、適応的無意識に提供する。

第二に、ウィリアムジェームズが述べているように、ある行動をすればするほど、それはより習慣的で自動的になり、努力と意識的注意を必要としなくなる。社会心理学の変わらぬ教えの一つは、態度や感情の変化にしばしば行動変化が先行することである。このように、自分についての意識的概念に一致するように行動を変えることは、適応的無意識に変化をもたらすよい方法である。*15

 

 

とあります。

 

先に書いたように、自分が知らず知らず、さまざまな偏見をもって、人をみていたことをまずは、気づくことが大切であり、それは外部からの情報を材料にすることができます。それについて、どのような見方を自分はもちたいか、なかには、その偏見は自分にとって正しいことだと判断することもあるでしょう。それは、それでその時点においては、いいのかもしれません。

 

ただ、その判断が、自分の態度や行動に影響を与えることであり、現代という時代や、環境にさらされたとき、(たとえば、家族や友人が自分が正しいと思っていたことと外れるときなど)書き換える必要に迫られることがあるかもしれません。

 

それを知っているのと、知らないのでは大きな差があるように思います。

 

よりよい自分とはなにか。その判断はやはり、難しいのですが、自分の幸福感や、良い気分となるものとは、やはり自分の意識レベルと無意識レベルがなるべく一致していることが、精神的にも肉体的にも健全となりうることを本文でも述べています。

 

この、内観をすることと、外部情報をとりいれ、行動(実践)すること。

 

人の意識、無意識については、まさに、さまざまな研究や、意見があります。私は、この本を通じて、まさにその入り口をかいま見ただけですが、わくわくするような興奮を覚えました。

 

まだまだ、この研究について、また参考文献などを読んでいきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 
 

*1:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学

*2:社会心理学 2014年 

*3:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P9

*4:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P11

*5:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P8

*6:こ自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 p32

*7:社会心理学  P141

*8:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P72

*9:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P90

*10:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学P21

*11:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学  P215

*12:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P261

*13:こ自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P265

*14:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P274

*15:自分を知り、自分を変える 適応的無意識の心理学 P276