放送大学で心理学を学ぶ

放送大学での新たな学びを通して自分と向き合いたい

子どもの頃の思い出は本物か    カール・サバー著     訳者 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也

記憶に関する本を読みました。

 

 目次

 第一章 何年も忘れない

第二章 幼児期健忘

第三章 自分が何者かをどうやって知るのか

第四章 記憶の再構成

第五章 記憶戦争の勃発

第六章 偽りを演じる

第七章 信念の限界

第八章 セラピーの犯罪

第九章 イメージを信じて

第十章 虐待される真実

第十一章 フレイド家の確執

第十二章 真実、あるいはその行く末

 

 

 

子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき

子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき

 

 

 

 

近所の図書館は、小さな図書館で、蔵書もそれほど多くはなく、(いろいろ工夫されてはいますが)、設備もいろいろと考えさせられることもありますが、しかし、案外掘り出し物があります。

本屋でも図書館でもそうですが、ネットで注文するものとの唯一の違いは、実際に手にとって品定めができることと、本棚をざっとみることができる、ということだと思っています。

地方の小さな図書館には、そんなに専門的な本はないだろう、とたかをくくっていると損をするな、と思えたのは今回の本との出会いです。

 

 

記憶についての学習

私自身、記憶というものを学習することができたのは、もちろん放送大学の授業、認知心理学の授業です。(高野陽太郎先生)

記憶、とは、認知心理学の分野ではとても大きな部分をしめているのではないかと思うのは、私たちが生活する上で、記憶することが様々な活動の基礎となっていると思えるからです。

言語能力の獲得や、さまざまな経験というのも、それらを情報として取り込まないと、使うことはできません。

コンピュータなどの外部記憶と呼ばれるものが、なぜ脅威と感じるのか。それはその記憶能力だと思います。処理する能力も勿論ですが、まずはデータをのみこむその速さと量。私たちがたとえば一度に憶えることができる量 (作業記憶) として、7つプラスマイナス2(マジカルナンバー)というものがあります。

記憶関しては、とにかく苦い思い出がつきまとうものですが (受験期や買い物での物忘れなど)、この本では、その記憶が、たとえば子どもの頃の記憶という特定されたものに関して、深刻な問題を引き起こしていることを、さまざまな研究や、社会的な問題を通して、問題点を提起しています。

 

著者のカール・サバーは、

作家、ジャーナリスト。キングスカレッジ(ケンブリッジ大学)で実験心理学を学ぶ、

となってます。

この本では、全体を通して、心理学の様々なすぐれた実験や知見を通して、記憶研究を紹介しています。そしてなかでも、記憶という途方もなく、わからないことが多い研究であるがゆえに、様々な問題があることを、この本の後半には紹介されています。

 

ところで、著者の、心理学という学問に対するリスペクトをとても感じます。例えば、このような箇所です。

ケンブリッジ大学で古典的な実験をおこなったフレデリック・バートレットの有名な実験のことについて

バートレットは、科学的な心理学と認められるのは、複雑で専門的な知識を生み出す場合だけであるとは考えなかった。心理学の科学的探求から生まれる発見は「常識」を確認しているにすぎない、と批判されることがある。物理学であれば、たとえば、原子の存在を私たちが直にかんじることはない。そのため、日常生活から経験的に身につく原子についての常識といったものはなく、その意味では、原子を理解するのに常識は役立たないだろう。だが、記憶に関しては違う。記憶というのは脳に「痕跡」として刻みつけられ記録されるものだ、という常識を私たちは持っている。バートレットは心理学の優れた実験によって、一般常識よりも記憶について正確な理解がえられることを示している。   P94

 

さて、その幼児期の記憶に限らず、記憶とそしてそれを思い出すということがどういうことなのか。

最近になって、脳の研究が一段と進み、新しい知見が続々と示されています。

本の第一章から第四章まで、記憶についての心理学実験を通してわかってきたこと、幼児期の記憶について、その記憶の想起について書かれています。

つぎの第五章からの、「記憶戦争の勃発」へと、つながっています。

 まったく忘れ去ったものを、あるとき突然思い出すということがありうるのか。

そのわすれていたものを、では、正確に思い出すことができるのだろうか。

記憶はビデオテープのようなものではない、ということがわかってきています。

それを自由に巻き戻したり、特定の場所で停止して、そこをじっくり検証するなんてことはできない。

つまり、記憶に関してはまだわからないことばかりなのに、その記憶がとんでもない「事実」をつくりだし、実際の法廷での争いになり、無実の罪に問われる可能性が出ているというのです。

 

記憶を証拠とする

本では、記憶の検証がいかに困難か、様々な実験を通して述べられています。

そして、たとえば幼児期にトラウマとなるような出来事を、まったく忘れ去っていたにもかかわらず、あるとき、それを「思い出」し、法廷での争いになることもあるようです。

実際、幼児期に虐待を受けた、という人が、なにかのきっかけで、それを「思い出す」場合があるようです。

しかし、その「思い出したこと」は「本当に思い出した」ことなのか。

たとえば、社会人となり、様々なストレスを抱え、人間関係がうまくいかないなどの悩みを抱えたとき、誰かのアドバイスで、過去になにかあったのではないか、というものがあります。

そうすると、私たちは、たとえば母親から、小学生のころ、とてもきつく叱られたこととか、なにかを買ってもらえなかったことなどを思いだすことがあります。

そのことがなにかのきっかけになっているのではないか、といわれると、精神的に安定しているときは、そんなこと、大したことじゃなかったと、否定できるのに、不安定であるとき、なぜかそれを過大にとらえ、現在の不安定な状態は、子どものころに受けた「しうち」が原因ではないかと思う可能性はあります。

 

本の中では、数十年も気がつかずにいた子どもの頃の記憶が証拠となって、その記憶をもとに有罪判決がくだされた裁判や、また、子どもたちの証言だけを証拠として、有罪判決がくだされた裁判などが取り上げられています。

 

また、宇宙人に誘拐された「記憶」を持つ人や、前世を信じる人たち(何度も生まれ変わってきたことを憶えている)などがいることも紹介し、このような、一見荒唐無稽な記憶を頑固に信じ続ける人たちのことと、性的な虐待を過去に受けたと「記憶」する(あるいは、思い出した)人たちとの共通点をあげています。

 

そして、この扱いがとてもむずかしい記憶問題について、心理療法家などがおこなうカウンセリングが引き金になっていることも提起されています。訴訟社会の米国などは、カウンセリングを受けて、そこから、親からの虐待の記憶を思い出し(実際にあったかどうかの疑念をはらむものもあり)、訴訟となったケースが多々あったようです。

 

記憶の重要性

記憶は、私たちが生きていく上で、欠かせない能力です。

でも、一番大切なことは、記憶と自分自身のアイデンティティとがつながっていることであり、自分がこうありたい、と思うように記憶をつくっていくのではないか、と書かれています。

過去にどんなことがあったのか、その細部を記憶することよりも、その記憶でどんなことが必要なのか、そしてそこから自分が理想とする生き方を学びとること、経験がいかせるように、未来をつくっていくことが、記憶の大切な役割であるといえます。

もし、過去に問題があって、それが原因でいまが不幸だと感じるなら、その過去を、変えることができるわけです。

つまり、過去の記憶を意図的に自分で変えてしまえばいい。

 

自分の記憶の不確かを逆手にとって、すべてを良いことばかりだったと思い込むことは、悪いことばかりだったと思い込むよりずっと健康的です。

本書の中で現在は過去からできているのではなく、あくまで、いま、つくっていくものであり、過去は現在のあり方で、つくっていけるんじゃないか。

本を読んでそんな風にも考えることができました。

 

本書を通じて、多くの心理学者が登場します。そして、過去のすぐれた研究、心理実験、論文が紹介されています。

記憶など、とてもむずかしい問題に取り組む多くの研究者たちの苦闘が、しみじみと伝わってくるし、きっぱりとした結果が引き出されてくるわけではないけれど、そのチャレンジする姿が、胸を打ちます。